前作「871569」のファンなので喜んで読みました。 今作のタイトルは「やないごろくツー」と読むようです。
「ツー」ものでありながら、前作と質的に異なり、そして 良い言葉が満載です。
前作が「熱意」の言葉を集めたとするなら、今作は 「真剣」の言葉を集めた本、と感じました。
もちろん、読む方は東日本大震災以来の著者のすごい 活動ぶりを知っているから、そう感じるところもあるの でしょう。 (ただし、震災うんぬんについて直接的な言及はほとんど ありません)
みんなが共有した悲しい記憶、そこは改めて語らなくていい。 生きている自分たちは、「絆」とかそんなんじゃなくて、 どんな言葉で繋がっていけるのか。
そのあたりを、それこそ真剣に考え尽くした上で書かれた 「語録」なのかなあと感じました。 本当に良い本です。
数カ月前、発売直後に購入しましたが、海外赴任などの事情で、8月末になって観ることになりました。
今年になって全集が発刊されたのは記憶に新しいですが、大好きな藤子F先生の「新作」を読むのはもはや叶いませんが、先生の70年代80年代のSF(スコシフシギ)作品が、21世紀にどのように映像化され復活を遂げたか観たかったのが購入の理由です。
で、どんな印象を持ったか。F先生のファンとしての感想です。
全6話をオムニバスで、6人の監督が映像化しています。それぞれの解釈、演出、表現方法、作品へのスタンスがあって、好き嫌いが出るのは仕方ありませんが、方法論は違っても、それぞれに藤子F先生への愛情、敬意を感じたのは感じました。
ただし、それが、藤子ワールドを構築し得たか、というのは、また別の話ではあります。
1話「値ぶみカメラ」
原作のネームを忠実に映像化しようとの試みだったと思いますが(主人公の衣装の柄まで再現してます)、マンガ風に表現しようとするあまり演技は不自然に過ぎ、どなたかも「豪華俳優人による学芸会風」と書いていらっしゃったように、大人向けの映像作品として視聴に耐えない方もいるかと想像します。(メイキングで監督は「(作品のそのまま実写化の)実験をしなくちゃ」と思っちゃった、と言われていましたが、ちょっとアプローチが違った気がします)
ちなみに最後のやらせっぽいインタビュー映像は明らかに不要、デス。
2話「あいつのタイムマシン」5話「征地球論」は、いずれも主人公を男性から女性に偏向していますが、2話は、結末部分を除いて、ほぼ別の作品として生まれ変わっています。エッセンスを抽出することなくしてはできない翻案です。
原作からして、藤子作品にしてはちょっと難解、不条理な印象を受ける異色作ではありますが。1話とのアプローチの違いが印象的で、3話以降の展開に期待を持たせます。
3話「ボノム〜底抜けさん〜」6話「ボクラ共和国」
6作品中、原作が最も古い1970年作のため、どのように演出するのか気になっていましたが、単純に舞台を現代に置き換えただけかと思わせつつ、いきなりびっくりするような展開で驚かせ、楽屋落ちネタもまぶしながら、原作の要素を要所要所で押さえていきます。6話にも言えることなのですが藤子先生が言いたかったことを現代的に表現するには、先生の持っていらっしゃった、ある種の「宗教的悟り」をも理解できないと、結論部分も含めた映像化はちょっと難しかったかな、と思います。
4話「かわい子くん」5話「征地球論」
原作の要素を再構築して、新たな現代作品に昇華しようとされた意図がいちばん伝わりやすい印象を受けました。
4話の主人公の一人、麻生久美子氏は、最近観た雨上がり宮迫主演「純 喫茶・磯辺」のエキセントリックな素子役とイメージがかぶってしまったのが残念でした。5話では他5作の監督陣がアニメパートの宇宙人の吹替えをやっています。
宇宙人が地球人である主人公たちの生態に突っ込みを入れていくのですが、終盤、本筋とは関係ないところで突っ込みを入れたくなるあり得ない演出がもったいない。(両親の前で高校生のカレシが指輪送るか、という)
主人公のケータイストラップが楽屋落ち風で愉快。
。
馬齢を重ね今更ですが、よかったです。以下、自らのためのメモです
茂木氏、快楽が必要。多種多様体験でアーカイブを増やす。行動して人と会う。
細谷功氏、地頭力(結論からの仮説思考力、全体からのフレームワーク力、単純化の抽象化力)
フェルミ推定(限られた情報で推理)エンリコ フェルミ
内田和成氏、仮説思考、情報は捨てる、問いをみえる化、仮説が気持ち悪いことこそ詰めが必要
合気道は「相手の力を使って、いいものを作る」という意味らしい。 「自分のこだわり」ではなく「相手を引き出す」 当代一流のクリエイティブディレクターの秘密が少しわかる。
佐藤可士和さんにも少し通じるところがあって面白い。 整理術 VS 合気道?
ここにコメントを寄せるのは二度目だ。
前回星3つ「結局」と言いつつ、やはり聴いてしまうので。
自殺した男の子が聴いていたブルーハーツからハイロウズへとなった
ヒロトさんとマーシーさんが「青春」という曲で
「心のない優しさは 敗北に似ている」と音を鳴らしていたのを思い出したのだ。
彼の自殺に対するショックの世界を引きずったのは
どこかで「救いようがない」自分に対する憐れみだったのかもしれない。
それは彼にとっては不要なものだろう。
私は自分に敗北を許していただけなのだ。
最近思い切り笑える休日が多くなった。
平日はいつもの如く疑問ばかり。
だが「君」に対して求めた「好き」は「自分」に対する意志だと思う。
どうしても笑えた日には聴いてしまう曲である。
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