1966年に事件が起き,1980年に袴田巖(はかまだいわお)さんの死刑が確定した,いわゆる袴田事件に関する本。袴田事件は冤罪であると1980年以前から言われており,最近も犯行時に着ていたとされる衣類に付着した血液のDNA鑑定で判決内容と矛盾する結果が出て話題になっています。
本書は,この事件の犯人とされた袴田巌さんの無罪を確信しながらも,裁判所の慣例から死刑の判決文を書いた熊本典道・元裁判官が2007年3月に裁判所の慣例を破って「評議の秘密」(3人の裁判官のうち2人が有罪,1人(熊本氏)が無罪を主張したことなど)を語ったことを冒頭で取り上げ,事件の概要,捜査の様子,地裁判決から最高裁判決,再審請求の展開などをまとめたものです。
権力の傲慢(三権は無謬であると当人たち自身が何故か確信している),組織の保身,人は誤る生き物などということを考えつつ,ベーコンのイドラやカフカの『審判』などのことも思い出しました。特にこの中の「組織の保身」というのが,「お家意識」の伝統とでもいうのでしょうか,東京電力にしろオリンパスにせよ,公的機関にせよ,わが国では異常に強く,組織内にうまくなじんでいる分には良い点でもあるのでしょうが,逆に,組織を守るためならば,人身御供も村八分も許され,「基本的人権」は,憲法上は最大限保障されることになっていますが,わが国の文化,我々の血や肉にはまだまだなっておらず,「組織の保身」が優先されているのがまだ現実(憲法の番人とされる裁判所内ですら!)ということがよくわかります。
国民一人一人の命を尊重し守るのが近代国家の理念であり,まして,冤罪で奪うということが認められるはずはありません。本書は地裁で判決に関わった裁判官に焦点を当てて,読みやすく仕上がっています。袴田事件の概要は本書で理解できるでしょう。
なお,一点だけ残念なこと。本書の最後の映画化に関する部分は不要と思われます。映画化に絡ませたかったんでしょうが,こつこつ書いてきたルポの最後にそれとなく広告とわからないようにして広告が入ったようでイカンです。
起訴当初の証拠品ではなかった「血染めの衣類」が、被疑者が逮捕されてから1年以上もたって味噌樽の底から「発見」され、それが証拠に採用された結果の死刑判決。しかもそれが高裁でも最高裁でもくつがえらず、その後、再審請求も頑なに棄却される。
「血染めの衣類」のうちのズボンは、被告人にははけないサイズのものだったし、1年間味噌樽に漬かった衣類が、あんな、血の色の赤さのわかるような色でありえようはずがないのに。あんな小さなクリ小刀で、被害者の身体にあったような何十箇所もの深い刺し傷は作りようがないはずなのに。また、警察が「裏木戸はこうやって通れたはず」と称して写してみせた再現写真は、肝心の上部の留め金の状態が写っておらず、証拠になりえようはずがないのに。
これが、日本国憲法下の昭和・平成の世のできごとかと、唖然としてしまう。これでは「問答無用じゃ。神妙にせい」という、江戸時代の裁判ではないか。
警察は、正義の味方どころか、メンツのためには証拠の捏造さえする組織だったのだ。
しかも、事件当時のマスコミの報道を検証してみると、警察のリーク情報を鵜呑みにして、「袴田容疑者=本ボシ」のイメージを大衆に流布する任務だけを引き受けた「県警広報部の別働隊」としか思えない。
こうしてかき立てられたマス・ヒステリー的状態に、裁判官まで染まった結果、「死刑判決を出さねば住民が納得しない」ような雰囲気が作られていた。後にわかったところによると、事件報道が一段落したあとで静岡に赴任してきた熊本裁判官だけが、「疑わしきは罰せず」の正論で行こうとしたが、多勢に無勢で自説を通せなかったという。
袴田さんはご高齢です。一刻の猶予もなりません。みなさん、どんどんこの本を友人に勧めてください。そして映画『BOX〜袴田事件〜命とは』も観てください。
光市母子殺害事件の死刑判決が確定し、世を挙げて「本村さん、ご苦労さま!」「正義はついに勝ったね!」「世の中にはあんな悪いやつがいるんだから、死刑が存置されるべきなのは、当然だね!」といった意見が渦巻く中で、テレビドラマ『なぜ君は絶望と闘えたのか』のDVDを3回も続けて鑑賞した直後に、それと対極に位置するこの作品を観た。
『なぜ君は絶望と闘えたのか』の訴求力は、確かに大きかった。そして、あのテレビドラマや、その原作である門田隆将の同名の本に感激する人に対して、「しかし、ちょっと立ち止まって、冷静になれよ。制度としての死刑の是非をあの事例だけから判断するのは、控えたほうがいいよ。冤罪死刑という重大問題を君はどう思うのだね?」と問いかけると、決まって「冤罪の問題を死刑廃止の論拠に持ち出すのは、論点のすり替えだ」とか、さらに勇ましいのになると「あらゆる文明の利器にはリスクがともなう。冤罪がリスクだから死刑をやめろというのなら、新幹線も飛行機もやめねばならない」といった意見を吐く。
その人たちがもし、「死刑存置には賛成だが、その前提として、被疑者・被告人に対しては必ず最初から
弁護士をつけ、事情聴取段階から始まって、取り調べの全過程を録画することが必要だ。代用監獄は廃止し、取り調べは最初から
弁護士立ち会いのもとに検察官が行なうことが必要だ」などを熱心に主張するのならば、その死刑存置論にも一理はあると、私も認める。しかし、わが国で被害者や遺族の思いを代弁すると称して運動を始めた人たちの大多数は、そうした冷静さ、公平さをもたず、「殺人事件被害者遺族の癒されがたい思いの重さを知れ!」といった感情論で世間に訴え、その延長上に被害者参加制度を勝ち取ってきた。
袴田事件は、被害者遺族の訴訟参加なしでも、検察側の主張を裁判官が認めただけで(しかも、1人の裁判官は反対意見だったのに、多数決で決めて)有罪かつ死刑になってしまった事例だが、足利事件、布川事件などの、後に冤罪が証明された無期懲役事件で、もし「被害者参加制度」が適用されていて、被害者遺族が「この人を死刑にしてくれ!」と法廷で泣き叫び、その声に裁判官が動かされていたら、ただでさえデタラメだった警察のデッチアゲ捜査に対して「被害者遺族の声」が加勢することによって、冤罪死刑判決という恐ろしい結果になってしまっていた可能性がきわめて高い。
被害者団体の人たちは、このことをいったいどう考えるのか。ぜひ正面から答えていただきたい。
この映画の中に、あなたがたが避けて通っている「もうひとつの真実」がある。
(追記)なお、この映画を観た人は『袴田巌は無実だ』という本も買って、検察側証拠のデタラメさ加減などを、再確認することをお勧めする。映像だけだと、情報が流れ去ってしまい、手許に定着しないから。また、袴田さん自身の肉声は『主よ、いつまでですか』で読むことができる。
筆者の大変丁寧な関係者への取材などから、一見難解な事柄を非常にわかりやすく書かれています。本を読んでいくと筆者の熊本典道氏への情も感じ取りながら、同氏への評価は二転三転していきますが、裁判・冤罪・美談の向こう・裁判員制度で自分が裁く立場になったらどうするなど、いろんなことを考えさせてくれる傑作です。
また、できるだけ多くの人たちに冤罪袴田事件についても知ってもらいたい。