読後最初の感想は「またやられた…」。冷静に見れば例によって美男・美女による如何にもなメロドラマなのだが、にもかかわらず深い感動と悦びを禁じえないのは、最早神業とも言える著者一流の「表現者の企み」によるものか。巻末の見事な解説も必読!
芥川賞を貰ったからといって、その後もその作家がハイレベルの小説を書き続けるとは限らない、という見本みたいな本ですなこれは。最近やたらに目立つ「逆恨みストーカー犯罪」を描いた小説だというので、ドストエフスキーとまでは行かんでも、それなりに風変わりで興味深いキャラクターが登場するんではないかと期待して読んでみたんですが、出てくる男も女も、誰でも思いつきそうな、アタマの悪そうな奴ばかり。全体としても、他のレビュアーもご指摘の通り、いろんな設定を用意しながら、それらを効果的に生かし切れないまま、なんとなく終わってしまいました。要するに、2時間ドラマです。
しかし映画ファンとしては、いろんな映画のシーンを所々で引用している形跡があるので、それなりに楽しめます。作者はかなりの映画マニアなのでしょう。戦前の日本映画のフィルムが散逸・劣化して、同時代の外国映画と比較してもレベルが高かったであろう映画群を鑑賞できない現実に、作者は無念な思いを持っておられるようです。その点は同意します。この小説にも名前が登場する山中貞雄をはじめ、内田吐夢や伊藤大輔の戦前の映画が現存していたら、日本映画史も、今語られているものとは多少は趣を異にしていたでしょうし、山中貞雄(この人、黒澤さんと実は同世代なんですね)が戦場から生還していたら、戦後の日本映画の勢力図は、まるで違うものになっていたでしょうから。この前、
衛星放送で伊藤大輔の「斬人斬馬剣」の断片映像を放映していましたが、黒澤さんの「隠し砦の三悪人」だの「椿三十郎」だのの原形そのものじゃないですか。当時のフィルムが完全な形で発見されたら、黒澤さんへの評価すら変わってしまうかもしれません。1975年の秋だったか、無くなったと思われていた「狂った一頁」のフィルムが偶然発見され、サウンド版が岩波ホールで上映されたことがありましたし、この前も「忠治旅日記」のフィルムが発見され、復元されたものが
衛星放送で放映されましたが、まだまだどこかの家の物置に埋もれているんじゃないの? 文化庁も予算をタップリ獲得し、フィルムGメンを組織して、どんどん探し出してもらいたいですね。
戦前の映画への想いとは別に、面白かったのが次のくだりです。「映画が終わった。敦子がホール出入口に立って客を送り出していると、須山が駆け寄ってくる。「久しぶりにデコちゃんに会った。デコちゃん、モノクロのほうがいい。ずっといい。こういうのを久闊を叙するというんだね」 団塊の世代の須山が、デコちゃん、と高峰秀子の撮影所内での愛称で呼ぶのが可笑しかった。」(フィルムセンターに勤めている設定の主人公・敦子が、「カルメン故郷に帰る」のモノクロ版上映を企画した際、ジャーナリストの須山と云う人物に声をかけられる場面) 一部の映画ファンへの痛烈な皮肉です。たまにいるもんね、親しく付き合っているわけでもなく、あるいは会ったことすら無いくせに、映画監督なり俳優なりを、業界内部での愛称で呼んで、「通」を気取る奴が。
辻原氏の作品を読んだのは初めての体験です。一人ひとりの登場人物が入念に
仕上げられており、特に主人公の半生とラストは感動的に描かれています。人との出会いが自分の運命を変えてしまうことはよくあることですが、これほど衝撃的な、しかも不幸な出会いというものがあるのでしょうか。ストーリーを明かすことはできませんが、性同一性障害、性倒錯の性癖をもつ若者との出会いが真面目にひたむきに生きてきた主人公の人生を狂わせてしまう。自分の鎖骨をその若者に見せ、触らせてしまったことで、ホモセクシャルな性癖をもつ人間と誤解されてしまったことが主人公の転落一途の人生の始まりです。犯罪者の更正に対して冷たい日本社会、厳しい就職事情、貧困者、路上生活者たちのその日暮らしの生活状況等も大変説得的に描かれていますが、そうした状況から逃れようと努力しつつも最後まで逃れることができなかったのは、主人公のあまりに不幸な運命のせいなのか、それとも犯罪に手を染めてしまった者の性なのか、人を殺す決意をすることで、人生を主体的に生きていることを実感する主人公はドストエフスキーの『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフを思わせます。いずれにせよ、転落一途の人生からどうしてこの主人公は逃れられなかったのか、更正できる可能性はなかったのであろうか、とても残念かつ無念な読後感が残りますが、この男の人生について改めて考えされられてしまう、運命とは果たして変えられないものなのか、主体的に生きるとはどういうことなのか、この小説は問題提起の書だと思います。私にとっては大変大きな意味を持つ抜群に優れた小説でした。ぜひ、この小説を読まれてみてはいかがでしょうか。