文庫本の帯には、あおり文句として「人生の断面を彫琢を極めた文章で鮮やかに捉えた珠玉の名編の13編」とある。この「彫琢」という言葉が、永井龍男を読み解くキーワードの一つである。「彫琢」とは、元々宝石などを刻み磨くこと、から転じて詩文の字句に磨きをかけることを意味する。短編小説の名手である永井の文章には、無駄を削ぎ落とした「簡素の美」がある。平易でありふれた表現を用いながらも、精巧に的確に組み立てられた文章には隙がなくて、むしろ緊張感さえ孕んでいる。簡素といっても水墨画のように枯淡の色はなく、独特の霊妙な色彩に彩られている。
作家・陽羅義光は、「永井龍男には、“絶対文感”のようなものがある」と書いているが、果たしてどうだろうか。私は、永井に天賦の文才があるとは思わない。それは、「文芸春秋」で辣腕編集者として作家たちと向き合う中で鍛錬された能力に違いない。言葉の美醜に敏感なのは、作家の文章を削り磨いた編集者の美意識そのものだ。
さらに表題作の『青梅雨』『一個』などに見られるのは、「シンボリズム」であり、永井文学を特徴づけるもう一つの重要な要素だ。読み終わって「はっと」する感覚は、文章に巧みに埋め込まれたシンボルや暗喩の裏に隠された本当の意味に突然気づかされるからで、永井の小説を読む醍醐味になっている。
さて、本作中、私が一番好きな小説は『私の眼』と題された作品。縁のない他人の葬式に参列し、香典袋に靴ベラを包んで、やがてつまみ出される男の一人称で語られる。男は明らかに精神を病んでいる。その男が「精神異常者というものは、自分の頭に疑いを持たない」などと言って滔々と他人を説く。その倒錯にリ
アリティと毒々しい魅力があって、それをもたらしたのは永井の筆力なのだが、作品に不朽の価値を与えている。面白いのは、連作の『快晴』が、今度はその異常者に参列に来られた、葬儀の主催者の目線で描かれていることだ。そうした試みは、1904年生まれの作者の作品とは思えないほど、新鮮であることに改めて驚く。練りこまれた小説作法は大きな賞賛に値する。