孤独な人間が読むと、より強い孤独感を抱く類の本である。不思議なことに、時々現れる名無しの登場人物にふと一瞬だけ愛着を覚える。だが、その感覚は長続きせず、また独りに戻っていく感覚に襲われる。
人生に執着する人間には単なる紙屑かもしれないが、人生を突き放して生きている人間にとっては、夜中の帰宅途中にあるコンビニのように明るい光を放つ紙束である。その光は瞬間的なものであるが、人生の地図を少しばかり照らすくらいの時をもたらす作品でもある。
左翼、右翼、中道といった政治的なイデオロギーとは関係なく(ここは著者の見解とは一致しないかもしれないが)、また恋人や家族の欠如といった「世俗的」な独り身ではなく、吐気を感じる独り身の人間には最良のパートナーとなりうる一冊である。
ジェラール・フィリップ中期の作。モノクロ。イヴ・アレグレ監督(「美しき小さな浜辺」に同じ)。
メキシコ・ロケ。土地の雰囲気はよく再現され
ている。のだろう。小さな海辺の町。男は元医者。分娩時に妻を死なせたことから酒浸りになっている。いわゆる汚れ役というところだろうが、
どうしてもG・フィリップだとそうきたなくはない。巧くはあるが。まあくそリ
アリズムがいいというわけでもないので、演技だけで見せていく、これは
これで抑制がきいていて、よい。彼のワパンゴの踊りは見もの。M・モルガン硬質な美しさ。財布をベッドの下に探すシーン(後で足したシーンとの
こと?)はみごと。扇風機のところも。彼女の夫が病気に倒れるあたりはくわしいのに、ラストはあっけなくて、やや違和感。M・モルガンが注射を
打たれる時のG・フィリップの表情は神々しいような、いとおしいような。愛い(あ、えらそうな言い方になった、でももう小生もフィリップより年
上になったからいいか)表情をする。
サルトルは哲学者であり、小説家ではない。小説家に『存在と無』を書くことはできない。しかし哲学者
サルトルは小説『嘔吐』を書いた。哲学書『存在と無』を書くよりも前に。この事実は著作家としての
サルトルの人生を考える上で、極めて示唆的ではないだろうか。
主人公である「私」アントワーヌ・ロカンタンは、時折訪れる「吐き気」の正体を突き止めようと日記を書き始める(その「日記」が本作品である)。やがて彼は吐き気の正体が存在の無意味性だったことを悟り絶望するが、小説執筆にかすかな救いを見出す。
私はいつか必ず死ぬ以上、世界は無であり、全ては夢に過ぎないのではないか。若い頃そのような形而上学的不安におびえながら読んだ本書が、その不安を払拭してくれることはなかった。
サルトルにとって死は大した問題ではない。だが死(虚無)へのおびえと存在へのおびえは、結局は同じことなのだ。大著『存在と無』を読んだ後に読めば、この作品の意味と深さがよく分かる。
作品を決意して終わる辺りはプルーストの影響も指摘できるが、果たしてロカンタンは作品を書き上げることができたのであろうか。日記をそのまま作品と解釈することもできよう。だが冒頭の「刊行者の緒言」にあるように、この日記はロカンタンの意志とは無関係に刊行されている。ということはロカンタンはもはやいないのではないか。一度存在の無意味さに気づいた者は発狂を免れないのではないか――等々、様々な解釈の余地が残されているのも本書の魅力であろう。
後年のボーヴォワールとの対話で
サルトルは、自分にとって哲学は小説の手段でしかない、という驚くべき発言をしている。事実上のデビュー作ともいえる本作品への思い入れはいかばかりであったろう。哲学史のみならず文学史にも残る
サルトルの軌跡として、名作の名に恥じない哲学小説である。
サルトルとボーヴォワールの出会いから、ナチスによる
フランス占領、戦後のボーヴォワールとネルソン・オルグレンの情事が終わるまでを、駆け足で描いており、二人について知らない人にはいい入門映画になるだろう。