破戒 (新潮文庫)
島崎藤村の「破戒」は、明治39年に自費出版されました。
全国水平社の結成が大正11年ですから、部落問題を真正面から
見据えた「破戒」の先駆性は明らかです。
昭和14年に「破戒」の改定本が出版されました。島崎藤村と
全国水平社との協議による改定でした。
「破戒」の差別的表現を訂正したとのことです。
確かに初版「破戒」には、種々の差別的表現がありました。
「穢多、非人、かたわ、気狂い」等の。
しかし、それを訂正すると、かえって、部落差別を糾弾する
作品のインパクトが明らかに低下してしまい、改悪でした。
そして、昭和28年、初版本が復原されます。
しかし、部落解放同盟は、
1.何の解説もない、単なる初版本の復元はおかしい
2.部落民と解放運動を考慮してほしい
というものでした。
「破戒」には、確かに「差別的要素」は、あると思います。
・差別用語
・丑松が、穢多だということを隠していたことを、土下座して
謝る。アメリカへと旅立つ=逃避
・解放運動家の猪子連太郎の台詞:「いくら我々が無智な卑賤
しいものだからと言って」の問題点
しかし、まあそれは、何というか、無いものねだりという気がしてなりません。
まだ、部落解放同盟はおろか、全国水平社すら無かった時代のことですからね。
時代的制約というものが、時代的限界性というものが確かにあるでしょうね。
むしろ、その先駆性をこそ賞賛すべきだと思われてなりません。
和解 (新潮文庫)
作者の実体験を基にした私小説。実際の志賀親子の確執の理由を補足しておくと、有力財界人だった父親が同郷の古河財閥に近かったため、足尾銅山の鉱毒被害を息子が現地調査しようとした時に大反対したこと、また息子がお手伝いの女性と結婚するのを反対したことが理由である。思春期の息子にしてみると、これらの事件を通して自分の父親が社会と家庭双方における暴君じみた権力者に見えたのか、彼は家を出ることで父と疎遠になっていく。(彼の本作までの各作品の随所に父との対決が裏側に描きこまれていることは、本文および解説に詳しい。)
ただ、本書の中でも随所に触れられているが、独立後も経済的には実家や親族に頼っていたようで、病死した子供の葬式を当然のように叔父に頼ったりしている。この辺りの自己矛盾が本来ならば最大の煩悶となるはずのだが、父と意地を張り合って感情的に妻に当り散らす様は、結構息子側にお坊ちゃんぽい幼さが感じられるのも事実だ。
以上のようなケチをつけた私だが、やはり名文家だけあって、きっちりラストで泣かされた。短い小説だが、家庭の中で様々な老いと死を巡るドラマが続く中で、父子の間のわだかまりが氷解していく様が、「自然主義」の作品と称されるだけあって極めてさらっと描かれているが、この辺の小説家としての「腕」はやはり巧みである。若い頃に読んだ時も心に残った作品だったが、やはり年を取ってからふと読み返すと、心への迫り方が違いますね。
清兵衛と瓢箪・小僧の神様 (集英社文庫)
◆「清兵衛と瓢箪」
作者自身の父子対立が投影された作品といわれていますが、
そのような文学史的知識がなくても、一篇の小説として、
非常に完成度が高いので、充分たのしむことができます。
清兵衛の趣味に対する周囲の無理解や理不尽な抑圧が露骨に描き出される一方、
清兵衛自身は、それに対して必要以上に萎縮したり鬱屈することなく、後には絵という
新たな趣味に目覚め、マイペースを貫いています。
その姿が実にすがすがしいです。
もちろん、清兵衛の目利きが確かなものであったと
証明されるくだりも、若干ベタですがやっぱり痛快。
ただ、そんな清兵衛をなおも苦々しく思っている彼の父が示す
「最後の一行」の行為は、今後の波乱を予感させ、不穏な余韻を
残しており、本作にふさわしい絶妙の下げだといえましょう。
小僧の神様・城の崎にて (新潮文庫)
志賀直哉には暗くて重いイメージがあった。
ところが、読んでみてそれは180度変わった。
こんなことを言うと、志賀直哉の研究者には怒られるのかもしれないけど、
僕にはこの作品たちが、現代風の、ちょっと皮肉の聞いたヒューマンドラマのように感じられた。
文学者は往々にして性格のきつそうな人が多いけれど、志賀さんとなら友達になれそう。
なんちゃってね。
以下、印象に残った作品をピックアップして感想を。
「城の崎にて」
「最高の短編」と名高い作品をようやく読んでみた。
一般的な評価はどうでもいいが、この作品の心象風景の繊細さ、
微妙さは確かに一見の価値があると感じた。
ストーリーはなんと言うこともない、穏やかに流れる日常だが、
交通事故にあって死に掛けた主人公には何もかもが違って見える。
死というものが日常のすぐ隣に何の激しさもなく寄り添っているのだ
ということを、改めて思い出させる。
「生きている事と死んで了っている事と、それは両極ではなかった。
それ程に差はないような気がした」
そのことを思い出すためだけの、小さくて静かな作品。
「好人物の夫婦」
この作品、かなり好きだ。
志賀直哉という作家はどことなくくらいイメージだと思っていたのだが、
この作品はとても暖かい。そしてコミカルで微笑ましい。
主人公は夫婦の、夫のほう。
ちょっと浮気癖があるが、妻を愛している。
妻の親の具合が悪くて、妻が家を空けていた後、
絶妙のタイミングで夫婦の家の女中が妊娠してしまった。
はたとあわてる夫。やれ困った。
今回に関してはなんらやましいところはないんだけど、
普段のことを考えると疑われてもしょうがない。
さてどうしよう、という話。
こんな志賀直哉の作品があるなんて、意外でしょう?
驚くほど読みやすいので、ぜひ読んでみて。
「小僧の神様」
これまた非常に有名な作品。
でもこっちはそれほど印象に残らなかったな。
でも、考えさせられるところはある。
結局のところ世界はどうしようもないほどに相対的で、
目に見えていない世界は、当人にとってはないのと変わらないのかもしれない。
自分とまったく関係ないところから急にふってきた出来事は、
まるで「神の仕業」のように見えるのかもしれない。
志賀直哉は、そういう狭い世界に住む「小僧」をかわいそうだ、
という目で見ているようだけど、それが不幸なのかどうか、
僕にはよく分からない。
情報化された今の社会では、自分と関わらないような外の世界について、
「知ること」だけが、容易にできるようになってしまった。
自分が手の届くはずのない極上の寿司を食べることができたのは、
神様の仕業に違いない、と考えて、
悲しい時苦しい時にその事を思うだけで慰めになったという小僧と、
神などとはまったく関係なく、社会の枠組みによって、
自分には決して手の届かないところがある、と知ってしまっている現代人と。
はたして、どちらが「かわいそう」なのだろうか。
清兵衛と瓢箪・網走まで (新潮文庫)
◆「清兵衛と瓢箪」
作者自身の父子対立が投影された作品といわれていますが、
そのような文学史的知識がなくても、一篇の小説として、
非常に完成度が高いので、充分たのしむことができます。
清兵衛の趣味に対する周囲の無理解や理不尽な抑圧が露骨に描き出される一方、
清兵衛自身は、それに対して必要以上に萎縮したり鬱屈することなく、後には絵という
新たな趣味に目覚め、マイペースを貫いています。
その姿が実にすがすがしいです。
もちろん、清兵衛の目利きが確かなものであったと
証明されるくだりも、若干ベタですがやっぱり痛快。
ただ、そんな清兵衛をなおも苦々しく思っている彼の父が示す
「最後の一行」の行為は、今後の波乱を予感させ、不穏な余韻を
残しており、本作にふさわしい絶妙の下げだといえましょう。
◆「児を盗む話」
「貴様は一体そんな事をしていて将来どうするつもりだ」という父の罵声から始まる
本作は、ある意味「清兵衛と瓢箪」の後日談、あるいは裏ヴァージョンとして読める作品。
タイトルが示す通り、作中の“私”が見ず知らずの少女を家に連れ帰ってしまうという話で、
良識派からすれば眉をひそめるような内容でしょうが、“私”を苛む不安や焦燥は、切実で、
ひどく現代的に感じました。