現代人にとってベールに包まれた日露戦争。当作品は、その中でも激戦だった旅順攻略戦にスポットを当てた物語である。後の太平洋戦争の悲劇が凄まじいため、陰に隠れがちで語られることが少ないが、この作品を観終えた時、きっと誰もが驚くであろう。
この作品を初めて観たのは中学の頃。主題歌が好きだったことがきっかけで観に行ったのだが、映画館を出る頃にはすっかり世界観が変わっていた。決して教科書には出てくることのない真実がそこにあった。以来何度もこの作品を観たが、いつ観ても色褪せることのない傑作である。
豪華キャストに加え、演出がまた素晴らしい。日常と戦場のコントラストが色鮮やかに浮かび上がり、出演者の迫真の演技が胸を打つ。
損害率46%、実に兵員の半数が死傷し、1万数千人の死者を出した無謀とも言える旅順攻略戦。司令官乃木と参謀長の伊地知の無能を指摘する声もあるが、私はそうは思わない。江戸時代から少しも変わらぬ旧時代の肉弾戦では、近代化され、当時世界最強と謳われたロシア軍に対して成す術がなかったのだ。
いずれにせよ、激動の明治において、国土を愛し、国土を守り抜くため懸命に時代を駆け抜けた日本人に心から拍手を贈りたい。また、当時の日本をリアルに再現した歴史的資料の観点からも一見の価値ある作品である。
1989年放映されたアニメーションのOP・ED曲集。
他のCDでも聴けるのですが、やはり「ピーターパンの冒険」「らんま」はOP・ED共に名曲ですね。
後半がやや印象が薄くなってしまうのが難点でしょうか。
「おぼっちゃまくん」の楽曲が聴けるのも珍しいかと思います。
前書きにも書かれているように筆者には軍歴が無い。そのためか日本、アメリカの両方からの視点で公平に書かれている。また、戦争賛美や反戦思想もなく、起った戦闘を客観的に解説しているのも特徴だろう。
そのため感情移入ができず、戦記としては平凡で高揚感に乏しいのが残念だが、解説書としては最適と思える。
上巻は開戦前夜からガダルカナルの攻防まで、つまり太平洋戦争の前半、日本軍の調子が良かった頃から転機までが描かれている。学校の歴史教科書では、真珠湾攻撃、ミッドウェイ海戦、ガダルカナルからの撤退と半ページ程度の記述で済まされているが、それでは物足りない方が最初に読むべき本だろう。
ちなみに、アニメンタリー決断の原作者が書かれているだけあって、戦争の勝敗における司令官の決断の重要性にも焦点があてられています。
後半は、地獄の戦場であるニューギニア戦線やインパール作戦、絶対国防圏をめぐる戦いであるマリアナ沖海戦、そして最後の反抗であるレイテ沖海戦を経て沖縄決戦までひと通り書かれている。
負け戦に次ぐ負け戦、戦場の悲惨さや指揮官の無能さ無責任さは読むに耐えない。
そもそも山本長官は国力を考え、短期決戦を目標に開戦した。半年後のミッドウェー海戦で勝利して講和に持ち込む手筈だった。しかし結果は惨敗。計画は狂った。戦争を止めるきっかけを失ってしまった。
だが、日米の生産力差を考えれば、一度でも負ければ再起は難しい。すなわち一度の戦闘の敗北が戦争全体の敗北につながるということだ。このことは事前に分かっていたはず。でも勝つことだけを考えていて、負けたときのストーリー展開は考えてなっかた。無責任な話だ。ここからは行き当たりばったりの戦略無き戦闘がニューギニア、ビルマと続き、当然負け続ける。
そして絶対国防圏とされるサイパンが陥落して、B29の爆撃圏内に日本本土が入ったことにより敗北が確定しても、より有利な条件で講和するために次ぎ勝ったら止めようとズルズルと負けを重ねていく。
挙句の果てには神風特別攻撃隊、大和の水上特攻、決死を通り越して必死の作戦しか無くなった末期状態になってもまだ本土決戦を叫ぶ始末。
結局はソ連の対日参戦と原爆2発で無条件降伏。本土決戦が行われなかったことにより日本は戦争には敗れはしたが、民族が滅亡することは無かった。
悲しいことだがこれが唯一の救いだ。
1951年3月24日にアメリカ大統領トルーマンは、「(韓国と北朝鮮の)停戦を模索する用意がある」
との声明を発表する準備をしていたものの、これを事前に察知したマッカーサーは、
「中華人民共和国を叩きのめす」との声明を発表。
38度線以北進撃を命令し、国連軍は3月25日に東海岸地域からこれをを突破する。
またマッカーサーは、中国軍の進撃を絶つために原子爆弾を使おうとしたともされる。
このままマッカーサーに任せれば、戦闘が中華人民共和国の国内にまで拡大し、
それによってソ連を刺激することを恐れたトルーマン大統領は、4月11日にマッカーサーを解任した。
マッカーサーは連合国軍最高司令官の座からも解任されることになり、
4月16日に専用機「バターン号」で日本から帰国し、
後任には同じくアメリカ軍の第8軍及び第10軍司令官のマシュー・リッジウェイ大将が着任した。
この後、1951年6月23日にソ連のヤコフ・マリク国連大使が休戦協定の締結を提案したことによって停戦が模索され、
1951年7月10日から開城において休戦会談が断続的に繰り返されたが、
双方が少しでも有利な条件での停戦を要求するため交渉は難航した。
1952年1月18日、実質的な休戦状態となったことで軍事的に余裕をもった韓国は李承晩ラインを宣言し
竹島、対馬の領有を宣言して連合国占領下にある日本への強硬姿勢を取るようになった。
1953年に入ると、アメリカでは1月にアイゼンハワー大統領が就任、ソ連では3月にスターリンが死去し、
両陣営の指導者が交代して状況が変化した。
1953年7月27日に、38度線近辺の板門店で北朝鮮、中国軍両軍と国連軍の間で休戦協定が結ばれ、
3年間続いた戦争は一時の終結をした。
現在も停戦中である。
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