プログレロックRTFの最後を飾る作品 プログレ的な要素が最高点に達した感じで RTFがこの後、まったく違うものになることから考えても 彼ら的にもRTFの完成という意味合いを持つ作品だと思われる いつも通り、超絶技が飛び交う綺麗な曲が満載 (ベースが一番弾きまくりで一番目立つ) 今回はジャケットの絵、タイトル、曲名の通り 中世風の音色、音階が多用された曲作りになっているのも特徴 ただ初期の頃から見ると技巧に走り過ぎて 勢いというか、ガツンとくるかっこよさは形を潜めた感じがしないでもない 素直な技巧派プログレが好きな方にオススメ
こんな面白い本、どうしていままで読まなかったんだろう。作者が有名なのも、この作品が有名なのも知っていたのに。と思うと同時に、御手洗潔という探偵に(本業は占星術師なのだけど)出会えてほんとによかったと、読んだあとになんだか幸せな気持ちになった。 梅沢平吉という画家の手記から始まるこの作品は、最初から最後まで読者を惹き付けて飽きさせない。これだけの長篇なのに。事件は40年間誰もその謎を解くことができなかったという難解なもの。梅沢平吉殺し(しかも密室)、長女一枝殺し、そして平吉の娘と姪の6人が殺されるという大量殺人。しかも、手記によると6人を殺す動機のある平吉は最初に死んでしまっている。残った関係者の中にも物理的にその殺人を成し遂げられるものはおらず。!。。途中に2度も読者への挑戦が挿入されているが、丁寧に読んだつもりなのに、まさかそんなトリックだったとは、と嬉しい驚き。 そしてこの小説の何といっても一番の魅力は探偵・御手洗潔でしょう。他人の目なんて気にしない、ちょっと風変わりでくせのある男。だけどどこか愛嬌のようなものがあって憎めない。始終振り回され、憎まれ口をたたかれながらも彼から離れることのできない石岡くんの気持ちが分かるような気がする。 推理小説が好きで、まだこの本を読んでいない人、読まないと損ですよ。読んでみればわかる、きっといままで読んだ本の中で1、2を争う作品になるはずです。
「新本格」登場が叫ばれて久しい昨今、
その新人達のはるか先陣を切るように颯爽と文壇に登場した『占星術殺人事件』以後、
なんとデビュー以後24作もおいて発表になった幻のデビュー作『習作'T』。
これは著者が初めて手がけた作品でありながら、
どうしても文章表現の稚拙さだけは直さざるを得なかったものの
それ以外の物語の展開等には一切手を加えていないまま世に出た作品である。
若さ故の粗削りな部分もあったり、
昭和の香りの残る横浜・関内の街並みの風景描写などは
読むこちら側も歳を取ったことを確実に感じさせるものではあるが、
数多あるミステリというジャンルの自らの読書体験の中で
これほどの傑作に当たった記憶はない。
何度読み返してみても、傲然たる衝撃と途方もない寂寞とした悲しみが、
読む手を震わせ、涙が止めどなく溢れる感動を呼び起こしてくる。
20代の御手洗潔−それは、著者の、そして我々の青春そのものにほかならない...
(これは上下巻あわせてのレビューになります。)
不運な浮世絵研究家である主人公が、栄達の道から外れ、妻の実家からも当たられ、六本木の回転ドア事故で息子をなくし、義父が起こす訴訟の余波で、自身の浮世絵研究の中身も誹謗され・・・というどん底転落人生から幕が開きます。 なぜか彼に好意をもってくれる工学部の女性教授の力添えと、編集者の後押しで、主人公は写楽の正体についての新説を立ち上げなくてはならなくなり、初めは平賀源内かも、という説に傾きますが、同時代の歌麿の主張などを読んでゆくうちに、ある推理にいたりつき、後半はその状況証拠固めで国際的にストーリーが広がってゆきます。
主人公の自己述懐が頑なで単純に自虐的な繰り返しの多いこと、彼を援助する女性教授の意図が最後までよくわからないこと、そして写楽研究がこれまでどのように展開されてきたかを読者に説明する部分が、編集者や女性教授らとのセリフの受け渡しで行われていて膨らみに欠けること、さらに江戸篇が挿入されていますが、状況説明やご政道批判が蔦屋重三郎のひとりがたりにも近いセリフのみで展開されることなど、小説としての完成度に欠け、筋を急いだ感は否めません。
しかし、それでも読み終えた現在、何とも言えない感慨が残るのは、さすがにこの著者だと思います。 自分の中に残っているのは、もちろんこの新説のスケール感ですが、この論は文献的考証的にがっちりと構築された論かと言えば、その点は弱いと思います。しかしなぜか説得されるのは、主人公の直観です。写楽の大首絵がかたちではなく、人間の体が内にためた力に肉薄しており、これは歌舞伎を見慣れた絵師のものではない、という直観。 見たことがないから、子どものように直截的な驚きと、裸の王様を見抜く目をもって、あれだけのデフォルメがなしとげられている。 そのことは下巻の蔦屋重三郎の驚きによく語られています。重三郎はそれによって驕った役者の世界の批判も合わせて行おうとしており、まさに江戸のジャーナリストの面目躍如です。 そして目鼻や指などの形の細部ではなく、絵の内包する躍動感や単純化の背後にある視線に焦点を合わせたところが、小説家島田荘司ならではの論になっています。
この新説では、同じように芸術の機微に即したもうひとつの面、すなわち下絵とそれのコピー、また彫りの段階で、どんどん絵が変わってゆく、という指摘にも驚きました。下絵がだれか、という推理につなげて、最終的なあの絵にどうやってなったか、についての説はかなりアクロバティックですが、学術論文ではない、芸術家の直観ならではの看破です。
ラストは唐突に終わっており、裁判の推移や論争の行方、女性教授の人物像なども描ききれておらず、そこは逆に小説として足りないところだらけなのですが、なぜかそれも作者ならではの持ち味として心に残ります。回転ドアでの子どもの惨たらしい死と、鎖国時代の写楽の意外な正体が対置されたかたちでの、奇妙にシュールな絵のような後味です。
島田ファンであれば、そして写楽の正体探しに一度でも興味を持ったことがあれば、読むべき本だと思います。
コーヒー断ちの原因「数字錠」、名脇役が集合する「疾走する死者」、 なんとも愉快なミステリ「紫電改研究保存会」に、あの「ギリシャの犬」。 ミステリ&御手洗ファンならずとも読まないと損します。
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