低いほうをリムーバルメディアに固定して、高いほうをPCの留め金に固定するのですね。フムフム。が、PCケースステーに対して穴があわないので1点しか留まりません。左右二箇所しか。なのでグラグラします。不安な人は買わないほうがいいかな?ドリル万力があればドンと来いなんだけど。値段は安いけど残念。ちなみにSSDを固定する際ドライバーが当たってすごい取り付けにくかったです。ここマイナス。
ジャン=リュック・ゴダール監督の『中国女』『MADE IN U.S.A.』などを彷彿させるアート映画。撮影や編集、構図や色彩感覚まで60年代ゴダール色に満たされています。1バンドをフィーチャーしている構造は言うまでもなく『ONE PLUS ONE』から。その辺りを通過していない人に取ってはかなり「前衛的」「実験的」作品に映るかも知れません。バンドはあくまでひとつの素材としての扱いです。評価5は入力ミスではありませんが、明らかにニッチな客層を想定している作品で、一般向けのエンターテインメント作品でないことは確かです。
正規の商品ではない分、フェイクレザーで少々残念ではあるがその分、カメラの穴が開いてくれているのはいい! 完璧に見た目のデザインや質感などにこだわりたい方はやめた方がいいですが、多少使い勝手重視する方にはおすすめですね!。 普段、携帯として使うよりも手帳としての使い方の方が長時間を占めるようになった私にとって、カード類が収納できるのもうれしい。 スイカなどを一枚入れとくだけで、コンビニなどは財布いらず! 工夫次第で、ipadみたいに立てたりもできるので映像の視聴などにもGOOD! ※充電時に差し込み口が革にかむのが残念。(充電はしっかりできます。) 総合的には、値段の割にはちゃんとできていて良かったです。
「本書は03年から『ファッションニュース』誌で連載されていたものを07年に一度まとめ、 08年に出版されたものです。巻末にあるあとがきには、追補として08年以降の展望が 述べられています」。 「この本は『ファッション・ショーの映像を鑑賞し、それを批評する』という、他の あらゆる音楽付き映像メディアと違う、独特の様式美を持ったメディアを扱う批評実験で あり、ファッション・ショーで起こるあらゆることの原義を考察し、批評機軸を探していく。 という連載の記録です。……その中で例えば『ダンス・ミュージックに合わせて歩く時に 生じる〈ズレ/揺らぎ〉が美しいと感じられるということは、やはり〈ズレ/揺らぎ〉の 美しさを持った、ヒップホップ(の中でも、特にラップ)にはファッション・ショーと 共振する部分があるはずだ』といったことが書いてあります」。
序盤において展開される中心課題は、ショーにおけるモデルによる「ウォーキングの テンポと音楽のテンポのズレ」をめぐる問題。 テンポに乗ってモデルが踊る東京ガールズコレクションに「浮き足立ったゴージャスや 溢れ返るほどのセレブリティは売るほどありましたが、エレガンスやシックはまったく ありません」。 TGCは、その場に立ち会う観客とともにモデルが「ゴージャス感、セレブ感」を コミュニケーション(その語源は「共有すること、分け合うこと」)することで成立する。 ゆえに、彼女たちは「ズレ」を拒絶し「音楽に合わせて、踊りながら登場/退場」する、 いや、しなければならない。 一方で、ハイ・ファッションのコレクションにおいて要求されることは、観客とモデルが 隔絶されること。奇しくもメディアの語源は神と人とをつなぐ巫女、TGCの体現する フラットなシェアリングではなく、垂直的に「エレガンスやシック」を降臨させることを もって、ショーははじめて成立する。ゆえにこそ、そこに「ズレ」を持たねばならない。
と、興味深くまともな話といえばこれくらい。 紙幅の大半を占めるのは、ライヴや映像による各々のコレクションと音楽をめぐる雑感。 同時代性を共有しかねる2012年において、その批評がどれほどまでに妥当なのかは もはや判定不能。2008年春夏コレクションで筆者が実際にパリを訪問した際に行った、 V.ブランキーノやF.サンチェスらとの対談も収録
サブタイトルからして、今さらながらのフランス近現代思想のエスプリ(死語)丸出し、そして 本文においても、何ら臆することなくその影響が剥き出し。 なんともとりとめなくあざとい文章。村上春樹っぽくもあるかな、と既視感を辿っていたが、 言われて納得、あとがきが明かす通り、『なんとなく、クリスタル』以外の何ものでもない。 日記に刻まれる渡仏中に口にしたワイン銘柄の羅列、例えばニュイ=サン=ジョルジュ、 シャトー・ムートン・ロートシルト、ああ、よかったですね(棒読み)というツッコミ待ちな感じの この鬱陶しさ、田中康夫のコピーとしてはなるほど、ほぼ完璧。 「9月31日」(p.185)、フライト前日の空白感を醸し出したいのかもしれないが、やはり このひたすら面倒くさいだけの、ツッコんだら負けの小賢しさ。 無教養なソムリエども御用達、本文中でもやたらと連打される「マリアージュ」とかいう 垢抜けない前近代型イエ制度向け表現なんかよりも、組み合わせや相性といったことばの方が 果てしなく麗しいのに、なにゆえにこれほどまでの無様な固執を見せるのだろうか。 「『無邪気と言えば無邪気ですが、まあお戯れの粋は出ませんな』なドルチェ&ガッバーナ」、 「粋」なのか、「域」なのか、「粋」なのか、「枠」なのか、変換ミスなのか、落丁なのか、それとも 自身のラジオプログラムの宣伝なのか、さえももはや判然としないこの感じ。 annee(アクサンは文字化けしてしまうから抜いてあります)は女性名詞なのに、編集者や 校了、あるいは雑誌読者は誰ひとりとして気づかなかったのだろうか。
たぶんあったんだろうね、こういう実験、7-80年代に、といういちいちが煩わしい感覚。 「21世紀? そんなものは20年前から来ています」とは、まさにこの文体そのもの。
しかしそれをも突き抜けて、私の読後感を支配したのはもはや以下の一文だけ。 「すべての人が(それがファッション・ショーでは当たり前なのですが)動かずに、 うっとりとモデルたちを見つめている中、会場でただ一人、吉田美和さんだけが田中氏に よる世界水準のハウスDJに合わせてずっと首を振って(つまり『ずっと踊りながら』) ショーを見ている」。 何だろう、この文章を目にすれば誰しもが直ちに光景を想像できてしまうこの感じ、 そしてその瞳や頬から溢れ出る、ひたすら過剰な幸福感。
ということで、ちょっと早めのJe vous souhaite une bonne annee!
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