聖書本文は定評ある岩波委員会訳。詳細な脚注は無くなったが、巻末に用語解説が付され、解説された用語には本文中に*がついているので、巻末注のように用いることができる。詳細すぎる注に戸惑っていた人や、本文を途切れなく読み通したい向きには親切であると言えよう。
司氏の画については、紹介文に「西洋絵画の題材となった原初の物語が、東方的な象徴図像の伝統に、見事に移し植えられた」とあるが、水墨画の技法を使った前衛絵画といった趣の画が64点収録されている。本作に伝統的な何かを読み取ろうとすることには無理があると思う。
なにより残念なのは印刷の色である。表紙の画は黒と白のコントラストがくっきりとして大変印象深い作品なのだが、本文中の挿絵は黒ではなく茶色の混じった薄い黒になっていて、表紙と同じ画も印象のぼやけた感じになっている。画家のチェックを経ていないとは思えないのだが、その意図が計りかねる。
霊的存在を死者と見立てる場合、二類型になってしまう、と思った。
一つは、花が咲く/枯れる、提灯の火が点く/消えるなどということとシンクロして現象としてははっきりとその神秘さが感じられ理解されるのに、それがはっきりと死者の人格を保っているわけではないということである。
もう一つは、人格的個性ははっきりとしているのに、名前が出てこない、在る事、存在することは判っているのに、それがどのようなものでどのように在るか、を説明し言葉にしようとするとなかなかできずに、そういう者としてしか表現できないということだ。
これは、霊的存在が実際、死者ではないということを示しているのかもしれない。が、勿論、死者との距離がそういうものでしかないというだけのことかもしれない。
こういう短編集を編むということは、普通の書籍にはない編者の才覚から蒐集力までが存分に発揮されることから、著者とは別に編者が前面に出て来ざるを得ないことも本企画を面白くしている点の一つであろう。
小川国夫、亡き友&先輩たちへの思い中心に綴りまくりなエッセェ〜集っす!遠藤周作や島尾敏雄、立原正秋に関しての記述や、THIS IS 内向世代な、日々の移ろいの中での感情と呼ぶにも微弱BUT粗略にできねぇ〜ぇぇぃ…な思いを、ユ〜モァ〜交えながら描いてるとこなんかサイコッ!すが、個人的に興味湧きまくり湧きまくりなポインッ!は、埴谷雄高に関しての記述っす!台風で交通網ズタズタなっても、約束守って何時間もかけて国夫に、いつもと変わらぬ「おぉ、元気ぃ?」的顔キィ〜プって会いに来た話なんか、雄高の作品からは微塵想像不可な人柄感じさせ、作品を通してしか雄高知らねぇ俺ら的には、その愚直なまでの篤ごころに驚きMAXっしょ!日々の生活や亡き友たちへの思い、全編温かく包み込みまくりで、国夫の慈愛の輝きキラリと光る好エッセェ〜並びまくりっす!オガクニ、サイコサイコサイコッ!YEAH!!
視線の静かさと秘めたる覚悟のようなものがにじみ出てくるかのような、一見なんということのない素朴な、素直な文章に感じますし、すらすらと読めてしまうのですが、すらすら読むのがもったいなく感じさせる何かが文章にあり、つい読み返したりしてしまいます。自身の身の回りのことから、戦争中の事、あるいは趣味の絵、釣りの事まで、題材は何であっても視線はあくまで低く、読ませます。前回読んだ随筆集が大変良かったのでこの作品を選んだのですが、この随筆も良かったです、ある意味想像通りの素晴らしさでした。
が、新鮮な驚きだったのが、最後に2つの小品、短編小説というか、スケッチというか、または私小説ともいえる文章があるのですが、これがとても素晴らしかったです。パリに留学している書き手が結婚してプロヴァンスにいる友人をバイクで訪ねる「プロヴァンスの坑夫」、友人と2人でヴァカレス湖(私も何処だか分かりませんが、ヨーロッパのどこか?と推察しました)近辺を旅している日本人の私と物知りの速水との会話の妙の話し「サント・マリー・ド・ラ・メール」どちらもセンチメンタルだったり青臭い話しだったりする部分をあまり感じさせず、淡々と語ることで得られる静けさと透明感が素敵な作品です。
次は小川さんの小説を読んでみようと思わせる本でした。堀江 敏幸さんがお好きな方に、また小山 清作品が好きな方にオススメ致します。少し前までいらっしゃった地元に密着した「文士」の方の文章、とても惹かれます、オススメ致します。
|