読み終えた途端、何一つ手につかない程の余韻に浸りました。
清盛の孫、平資盛を愛した平安時代の女官、右京大夫とその日々が本人の視点から綴られています。
建礼門院は
平清盛の娘。右京大夫は平家黄金期の後宮で彼女に仕えた女官です。
過去を過剰に美化してないか、それにいつかは別れたんじゃ…などと考えなくもないのですが、そこを差し引いても当時の流れを知るに貴重なもの。原典は未読ながら、とにかくこの中の平資盛が強烈な印象で、その名を聞く度にこの本を想い出すようになりました。
そしてもう一人の恋人、似せ絵師でもある藤原隆信との顛末や、周囲との交流など、事細かな描写で綴られています。季節行事、文のやりとり、まるでその場に居合わせたかのような錯覚すら覚え、大満足の★5です。
※入り組んだ登場人物に加え、最近は耳にしなくなった丁寧な言葉使いです。もしかしたらてこずる部分かも知れませんが、そこを乗り越えて読んで頂きたいです。
追記:隆信はあの
源頼朝?の絵を描いた人(かも)らしいです(頼朝ではない可能性も指摘されていますが)。あとで知って「!」でした。
久しぶりに『婉という女』(大原富枝著、
新潮文庫。出版元品切れだが、amazonで入手可能)を読み返したくなって、書棚から取り出し、そそくさとページを開いたら、ほんのり甘いような古書特有の匂いがした。
40年間、幽囚の身にあった野中婉(えん)の自筆の手紙などに基づく、史実に忠実な小説であるが、女性の微妙な心理が心の襞の奥まで分け入って描かれているので、息苦しくなるほどだ。
婉が4歳の時に、母、兄弟姉妹、乳母たちとともに、高々と鋭い切っ先を空に向けた竹矢来が周りに巡らされ、番士たちが厳重に見張る屋敷に幽閉されることになったのは、土佐藩の執政(家老)として数々の大改革を成し遂げた父・野中兼山が政敵によって失脚させられ、死去した直後のことであった。
その父については、こう語られている。「父上が気鋭な、聡明な人であったこと、理想を追い求める情熱の人であったこと――。禅学から儒学にきて、夜を徹して講義を聴き、注釈も、送り仮名もない原本を手に入れて、熱心に独り注釈を試みたことなど――。22歳の若さで養父のあとをつぎ、土佐二十四万石の執政となり、死までの27年間、学問で得た知識と理想を、お仕置(政治、経綸)の上に一つ一つ実践していった人であったこと。山を崩して河の流れを変え、運河を延々と通して田圃を拓き、港を深くして大船を出入させ、山々、浦々、父上の理想の鍬の入っていない土地はない、といわれる盛んな経綸(おしおき)の数々――」、「寡黙、厳直、短慮、峻烈という『野中家の気質』をそっくり受けついでいた。父上はいつもまっすぐに前方を、未来を見ていた。失脚の日まで、過去に眼を向けようとはしなかった」。土佐の治安にいつも支障となっていた、困窮して自棄的になっている一領具足(長曽我部の遺臣である浪人たち)1万人を郷士に取り立てて、世上の不安を除いた「郷士制度」も兼山が断行した政策であった。
「延宝、天和、貞享と幽獄に年は移っていった。そうして迎えた貞享3(1686)年の夏の一日を、わたくしは生涯忘れない。――その日、わたくしたちの上に奇蹟が起った。すでに長兄、次兄もむなしくなり果て、わたくしはもう26歳になっていた。それは全く、奇蹟でなくてなんであったろう」。亡き兼山を敬慕する若者が、高知の城下から遥々と30里を踏破して遺児たちに会いにきたのである。その願いは許可されるはずもなく、空しく帰っていったのであるが、この幽獄を外部の人が訪ねてきたのは、23年間で初めてのことであった。
やがて、この婉より2歳年下の谷秦山との文通が始まる。「――わたくしは知っている。このときから、わたくしはそのひとのなかで生きはじめたのだ、と。谷丹三郎(秦山)という一人の男のなかに。貧しい、痩せた青年儒学者のなかに・・・」。文通が始まってから17年後、兼山の血を引く男子が全て幽居で死去して血筋が絶えたため、婉が43歳の時、婉たちは漸く幽獄から出ることを許される。その後も、秦山が最期を迎えるまで文通は断続的に続けられたのである。
「子も生まず、男にゆるす機(おり)もあたえられなかった、無垢というには味気ない40(歳)の乳房は、いまも娘のときに似た膨らみを持ち
弾力をも失いつくしてはいなかった。燃えきることのできなかった生命がしこりとなってその内側から、抗うものを盛りあげている。空しく花を萎ませてゆく、女のいのちの一つの極点にあるような危なっかしさ、脆さが、わたくしのなかで揺れ止まない。さやぎやまないのだ。そういういまのいまが、わたくしには堪えがたくつらく、残酷であった」、「幽囚40年はわたくしからすべてのものを、すべての仕合せを奪った代りに、奇妙に若々しい肉体と不気味に揺動する心を残した。そしてそれさえもわたくしには加えられた刑罰の一つであったのだ、ということを、わたくしはいま解(し)るのであった。この空しく、虚ろな美しさ、男によって仕合せになった歴史も、不幸になった過去をも持たない、男の垢、男の膏によって汚されたことも、男の爪あとで傷ついたこともない、不犯の女の若さ、水々(瑞々)しさは、美しいよりも不気味であることをわたくしは知っている」。
「二十数年、わたくしが恋いわたってきたのはこのひとであった。わたくしがせつに欲しいと思ったのはこの幸福(しあわせ)であった。人間と人間の、男と女の結びつきにも、千差万別があるのだとしたら、わたくしと先生(秦山)のこの結びつきもまた、他のどのような深い結びつきにも劣ることのない緊密さの上にあるのだ。この結びつき、この仕合せを大切にしよう、とわたくしはこのとき秘かに思っていた」。その膝に身を投げて泣きたい思いを、生涯、必死に堪え続けた婉の心中は察するに余りある。
なお、儒者であると同時に第一級の天文学者でもあった秦山は、やがて藩の儒官として登用され活躍するが、最後は失脚してしまう。
この書の中では、時空を超えて、婉と著者の大原富枝が融け合い、一体となっている。