先日、新聞の匿名批評で『みすず』で連載の始まった原武史の「日記」が《時代を映し出す資料になるかもしれない》と記されていて、居心地の悪い感じがした。その「日記」なるものを読んではいないのだが、最初から公表を意図して書かれた日記は、そういう形式のエッセイないし批評というべきで、それが「日記」形態だから「時代を映し出す資料になる」などと見なすのは本末転倒というべきだろう。その内容次第で価値ある証言になるというだけのことである。
一般的に日記は公表を意図して書かれない。だから、書くものがすべて公表されるプロの著作家がつけている日記は、暗黙のうちに公表の可能性があるがゆえに純然たる日記ではないとも言える。また政治家などがつけている日記も、暗に後世に向けた歴史的資料性が眼目にあり私的要素は薄い。もちろんそうした作家や政治家の日記が、書くと同時に公表される連載日記と異なるレヴェルにあるのは承知している。
本書は、山本周五郎20代後半から30代後半にいたる時期の日記だが、書くものがすべて採用されない時代に書かれたものであり、著者自身この日記が後世、公けになるとはとんと思っていない感じで、その意味で日記らしさを味読できる。
日記をつけている人なら納得するであろうが、ふつう日記においては不特定多数の者が分かるような書き方はなされない。自分(および近親者)にしか分からない
暗号的な言葉が頻出し、自分にとってのメモ、自分への励まし、詠嘆あるいは呪文などが横溢し、人に読まれるのが恥ずかしい言葉の連なりなのだ。つまり本書は『断腸亭日乗』のような、読まれることが意図されたプロ中のプロがしたためた堂々たる日記形態の書きものなのではなく、駆け出しの作家による幼く愛らしい正真正銘の日記であり、それゆえに一抹の価値があると言える。
本書は、山本周五郎没後数年後に公表された「青べか日記」と、2年前に刊行された『山本周五郎戦中日記』との間を埋める日記であり、何よりも最初の結婚相手きよえのことが書かれており、本書の
タイトルが決められた。雑誌採用されなかった、原稿も残っていない多くの作品
タイトルが記され、山本周五郎研究の資料としての価値があるだろうが、それよりも、あの圧倒的な小説家の、初期の「つたなさ」が感じられ、不思議な味わいを残す。
付け足しめくが、観た映画の題名が書かれているのも興味深い。奥さんが日本初公開からかなり後にフリッツ・ラングの『ニーベルンゲン』を一人で観ている。「青べか日記」では《ドラグ・ネットは佳かった》とあるが、これは『非常線』という邦題で公開されたスタンバーグのサイレント映画であり、フィルムが現存していない作品である。
芸能人が書いた本、特に自伝やエッセイ系は中身が無いものが殆どなので、通常読書対象としない。 ましてや自分で金を出して買うほどの意欲は残念ながら沸かない。 ところが気がつけば買ってしまっていた。 嫁に「こんなの買うの?」と言われてから気がついた。
ノッチという芸人はそれまで全く知らなかったが、TVで鬼嫁が紹介されると、がぜん興味が湧いてきたのである。 単なるヒステリックな暴力嫁なのだと思ったが、番組で彼らの過去が紹介されるにつれ、ノッチのだらしなさと嫁の素晴らしさが際立つようになった。 本書に手が伸びてしまったのは単純にこの夫婦のコトが知りたかったからである。
夫に折檻する嫁の姿は、憂さ晴らしをしているだけの部分も実際有るような気もするが、それ以上に、夫を食える芸人にするための嫁の我慢と努力が本書からも見て取れる。 何分にも夫であるノッチがいい感じにダメ男なので、素人であるはずの鬼嫁の方が危機感があり芸人がすべきことをよく理解している。
正直文章的な技巧もなく、単にあるがままの過去を書いた本であるが、その彼ら夫婦の持つ鮮烈なキャラクターが本書を面白くしている。 いやはや、デコボコ夫婦ではあるが、良いカップルだとしみじみ思う。
ビートたけしさんの「TVタックル」と、やしきたかじんさんの「そこまで言って委員会」で、情熱的に話される興味深い人物、それが三宅久之さん(1930〜2012)でした。
三宅さんの経歴を知ることもなく、大きな声で、真剣に、相手を論破するような姿勢に、「その思いは、どこから来るのだろう?」と思うこともありました。
安倍晋三内閣総理大臣が誕生する舞台裏で、命がけの三宅氏の動きに、「人の熱い思いが社会を、政治を動かすのだな〜」と思いながら読みました。