最後の授業――心をみる人たちへ
万葉集の防人歌が、後世の人たちのために謳われたのではないように、北山さんも個人のパーソナルな思いを詩にしていたのですが(p.39-)、フォーク・クルセダーズの解散記念につくったアルバムをちょっと売ろうかと思ってラジオに持っていったらその中の『帰ってきたヨッパライ』が270万枚売れてしまった、というんです(p.68-)。そこで味わったのが、自分の歌をコピーして売りに出すと手元になくなる、という実感だそうです。
もうひとつ、ここらあたりで語られている「セルフモニタリングの時代」という考え方はハッとさせられました。現代人はデジカメ、ビデオその他で「離見の見」でなくても自分を第三者的に見ることが簡単にできるようになりました。そして、こうしたセルフモニタリングで最初に感じることは、自分自身の醜さではないでしょうか。ぼくも最初にテープで自分の声を聞いた時の狼狽は忘れられません。
でも、最近は北山さんも書いているように、例えば写真映りが悪いなんてことは考えずに、映りの悪いデジカメのイメージはどんどん消すようになっていきます。これを北山さんは《セルフモニタリングの時代といっても、結局いいところばかりとっている》《セルフモニタリングの時代になって、今、日本人の自己イメージが結構よくなっているのではないか》(p.63-)と指摘します。映画の編集作業で「あ、これ消しちゃおう」といって良いものだけを残していくようなプロセスぱかりを進めるとセルフモニタリングが「自惚れ鏡」になってしまう、というあたりが素晴らしかった。ちなみに「自惚れ鏡」という言葉は佐藤忠夫さんの『映画をどう見るか』講談社現代新書にある「映画は民族や国家の自惚れ鏡である」からとったそうです(p.79)。
日本人の〈原罪〉 (講談社現代新書)
古事記上巻に書かれている現存最古の話などを中心にした神話が、現代まで続く日本人のメンタリティーに大きく影響しているのではないかと、「北山修」「橋本雅之」の両氏が専門分野を担当して解き明かしてゆく構成が読みやすかった。
フロイトやユング精神分析学までもツールとして、古事記などに書かれている神話の時代から現代まで脈々と続く日本人の深層メンタリティーを検証してゆくことが本書を読んで新鮮に感じた。
北山修氏が、有名な「ザ・フォーク・クルセダーズ」のメンバーだったことは知っていたが、ベスト・ヒットの”帰ってきた酔っ払い”の詩の内容まで引用して語る部分が面白い。
両氏が、環境汚染などに対して、人が生きてゆく限り「原罪」意識を持っていなければければならないと提言していることが、本書の最大のテーマなのかも知れない。
きみのうた
ギターを始めて、Fのコードで挫折した僕のような弱い男に限って
ここに収録されているような青春フォークが大好きだったりします。
だから、これらの曲を好きな女性の前で弾き語りをするのが、
当時のささやかな、そして果たせなかった夢でした。
その代わり、ここに収録されてるような曲を入れたカセットテープを作って、
彼女にプレゼントしていたのを思い出します。
そういえば彼女は風の「ささやかなこの人生」が好きだったなあ。
劇的な精神分析入門
はじめは、本を手にとり「劇的」というとちょっとびっくりしながらよみはじめましたが、だんだんと、違う意味だったのだと気づきました。読了後「劇」への見方が変わりました。
「自分を使う」ということ。セラピストの姿勢は硬直したものではなく、セラピストも変化があり「動き」として捉えるという見方。
また、「劇」という視点が加わり、文脈を書き直していく作業を助ける仮の共同作業だということが、よく伝わってきます。
Clの中での【楽屋で文脈を書き直すCl】←→【劇を演じ直すCl】という関係性を支えるものが、Thの中での【共同作業として言語化に参加するThとしてのTh】←→【自分のこころの傷をあつかいその気づきを台本として参考にするひと】の関係性なのかなぁ、と思いました。
誰もが感情をあつかい、心の傷とその周辺とつきあっていくという点で、同じ作業をしているのであり、役割は違っても一つひとつの劇を味わう。また、過去も大事にしながら、自分の中であつかうことができるようになってその過去も、ある意味変えられる。このようなあたたかさを感じました。