老人性痴呆に直面した家族の様子を描いた本 ・若者は自分が老人になることを認識できない ・肉親でさえ、いや、肉親だからこそ、ぼけてしまった老人に対して 端から見ると冷淡になってしまう。 ・嫁として世間体、母性という本能が入り交じり、世話をする女性。 ・おろおろと観念的になるしかない息子。 ・現実感がわかない孫。 ありふれていて 誰でも向き合わなければならない現実を様々な場面から 描いている。 昭和57年発刊だが 「昭和80年には3000万人が老人になる」 という、明確な事実に立っている自分としては ため息の一つもつきたくなる事実でもある。 老人の現実を幼い頃から見ることが出来ない 核家族化してしまった日本。 揺り戻しからくる 介護に対する関心。 どこまでも現実を突きつけてくれる作品。
1972年の段階で老人性痴呆という医学を超えた社会問題に着目した原作者有吉佐和子の慧眼には驚嘆敬服のほかはない。
恐らくはそれ以前にも随所で発症していた障碍がこれで一挙に市民権を得た功績は大であるが、かといってその治療が大きく前進したり、家族などの介護者が楽になったという話はてんで聞かない。むしろますますその被害波及の度は増大しているように実感される。
さてこの映画では、認知症の老人が激しく物忘れをしたり、脱走・徘徊したり、入浴中に溺死しそうになったり、糞便を塗りたくったり、かなりショッキングな光景が繰り広げられるが、最終的には嫁の超人的な奮闘努力のお陰で、症者がなんとかかんとかそれなりに仕合わせな生涯を全うするという結末は、しかしいま今振り返ると、現実の酷薄さと悲惨さを直視しない曖昧模糊とした不透明さがあり、原作者の余りにも文学的&情緒的な視点が物足らない。
全ての症者が次第に理性と悟性を喪失して無垢の幼時へと退行したり、甲斐甲斐しく介護してくれる嫁を恋人や母親のように疑似童話風に思いなしたりすることはない。またあれほど迷惑を蒙った嫁が、死んだ老人を懐かしく回顧して落涙するラストも、かくあれかしと誰もが望むのは勝手だが、余りにもご都合主義だし浪漫的であり過ぎる。現実はあんな甘いものではないのである。
しかし小説や映画はあくまで現実とは異なる異次元の世界なので、本作が時代的な制約もある中で、ある種の予定調和的なエンディングに着地したのはやむを得ない仕儀とは言え、それなら、雨の降りしきる中で老人が見惚れる垣根の白い花が見え透いた造花であるのは少なからず観客の感興を殺いでいる。森繁久弥と高峰秀子の熱演は賞賛に値するが、豊田監督のぬるい演出には疑問符が付くのである。
ドロドロの人間模様にハマってしまいました。
題材は『嫁姑バトル』と『麻酔薬完成&世界初の全身麻酔手術成功』です。でも、そんじょそこらの一般家庭の嫁姑バトルと違い、ヒステリックに罵り合ったり、あからさまな嫌がらせをしたりということはありません。
紀州の外科医である華岡青洲さんを挟んで、そのお母さんと奥さんが、自分こそが青洲さんの麻酔薬完成の役に立とうと、静かに火花を散らし合います。
そんな2人の気持ちを上手に利用して世界初の偉業を成し遂げる青洲さんと、3人を冷静に眺めている青洲さんの妹さん。
癖になって何度も読み返してしまう、そんな本です。
主人公、茜と 清太郎(後、徳兵衛)とのなれそめから展開は始まる。 夫婦としての二人を縦糸に、文楽の世界に生きる徳兵衛の三味線に賭ける潔いほどの情熱と、意気込みを 横糸に織りなしながら 展開するこの作品は 類い希な 傑作文学となっている。
とても味わい深く、面白く 何度も読み返した作品である。
殊に面白いのが 三章「音締」での徳兵衛の一徹なまでの頑固さであるが それは
文楽の三味線の弾き手として人生を賭して己を全うする処にある。
芸に生きんとする徳兵衛の生涯を描くこの最終章は 息をも着かせぬ迫真の展開となっている。私は有吉佐和子の傑作とみているが 間違いはないだろう。
闘う三味線 人間国宝に挑む ~鶴澤清治~ [DVD]
このドラマを支えるのは、菊川伶が演じる阿国の屈託のない笑顔だろうか?出雲で淋しい思いをしていた阿国が、踊る喜びを知ってから、どんどん表情が明るくなっていく。野心家の三九郎とは、対照的だ!ただ、踊る事の喜びの為、客層も選ばない。上層志向の三九郎とは、本当に対照的なのだ!しかし、その三九郎にも、そこまで来る様々な苦悩があって、、、。一概に善とも悪とも表現できないが、三九郎や菊は、いわば敗者なのだ!客層を選んで、上層志向なのが代えって仇になった。そんな難しい心理描写を堺雅人さんが演じる事によって、より役に深みが出る。阿国は、結構波瀾万丈の人生なのに前向きに生きている。そんな阿国のけなげさ、芯な強さに魅かれて、最後までいっきに見てしまうのかもしれない。鈴木一真の、おとぼけな演技もなかなか良い味が出ています。
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