川上未映子。作家として非常にインパクトの強い作品(ヘヴン良かった。怪物みたいな小説。)を書くかたですが、彼女の存在感に尽きる。
なんかエロいんです。そんなシーンは無いのに。
あとこの映画爆音上映とかでライブハウスで観たのですが、菊地成孔さんのオープニング曲で身震いがしました。
いい映画だと思います。
頭でっかちな学生が映画を作るとこうなるという見本の映画。 別に作品として悪くは無いし安心して観られるので理屈っぽさは多めに見てあげましょう。
注目して欲しいのは、かたせと永島の女としてのキャリアを積んだベッドシーンだろう。 それほど過激でもないが、円熟した女の堂々とした枯淡の濡れ場を堪能出来るだろう。 嬉しいのは二人の肉付きが全く対照的な点である。 作品として、そのことをさりげなく際立たせるかのように、相手の男役は柄本の一人舞台となっているのが心憎い演出。 また「最中」の柄本の背中に自然に視線が向くかと思うが、これはもはやコメディである。 したがって別に全共闘がどうのこうのといった事が作品の本質では無いので有る。 肩の力を抜いて心にゆとりを持って作品に接すれば、ギャグ満載の傑作コメディとしても十分楽しめるはず。
「ああ、いかにも芥川賞選考委員が好きそうな作品だ」
、というのが読みはじめてすぐに感じたこと。
もう今や若手作家に使い古された(パクられた)感のある
句読点の少ない文章とテンポには今更新鮮味はないけど、
この人の言葉選びのセンスは結構好きかも。
2作とも女として生きることの生き苦しさを感じさせる。
母であること、娘であること、姉であること、妹であること。
そして女であること・・・。
豊胸・初潮・メイク・・・などのキーワードから
女らしくあることに対する恐怖、嫌悪、
逆に女らしくなりたい願望までも描き出し、
文体のややこしさと言葉の選び方で仮面をかぶってるけど、
実は言いたいことはシンプルな作品なのではないでしょうか。
「あななたちの恋愛は瀕死」は
文学なのか、哲学なのか、モード系っぽさなのか、
とにかく何かを狙ってるっぽい空気がプンプンして作為的。
でも「乳と卵」のクライマックスの卵のシーンは迫力がある!
卵を割るたびにこの場面を思い出しそうで、ちょっとしたトラウマ(苦笑)
鼻につく点もある作家だけど、
こんなインパクトのあるシーンを描ける新人ってやっぱり凄いのかもしれない。
なるほど川上未映子はこういう風にキャリアを重ねているのか、という実感をまず得た。前作とは全く異なる新しい川上未映子がはっきりと読み取れる。内容はというと、34歳のフリー校閲者入江冬子と、先輩であり彼女に仕事を託す存在でもある石川聖、そして冬子がカルチャーセンターで出会う58歳の数学教師の三束さんが主な登場人物で、ほとんどこの3人しか出てこないような物語である。そしてその中でも冬子の語りや描写が長い。とにかく長い。あれだけ語りを尽くしてもなお、という感じが読みながらしていて、小説のなかでどれだけの時間が経っているのかの実感が掴みづらいという妙な感じを覚えた。
前作は「善と悪」という複雑なテーマだったが、本作のテーマはこれ、とはなかなか判別しがたい。恋愛はあくまでジャンルであって、それ自体はテーマではないだろう。自分が読んだ中で描かれていたと思われるのは、ひとつは距離感の取り方だ。冬子と三束さんとの関係は恋という文脈で、冬子と聖との関係は仕事相手という文脈で、そして冬子の独白(ないし回想)する過去は、その当時の彼女と誰かの距離の取り方でもあるし、彼女自身の問題(現在の彼女と過去の彼女との関係)でもあると言える。
どちらかと言えば、長い詩を読んでいるような気分でもある。つづられるのは基本的に冬子の一人称による独白なので、聖や三束さんの感情は最小限にしか物語に介入しない。大きな主眼でもある冬子と三束さんの恋も、ネタバレをしてしまえばそれはあくまで恋であった愛にはたどりつかない。それは物語が続いてどこまで行っても、おそらく。そう感じさせるくらい、冬子という人間について読者は偏って知りすぎる。
その上で言うと、冬子は他人との距離の取り方についてかなり痛い。下手すれば2ちゃんねるやニコニコ動画を徘徊するニートよりもなお、かもしれない。そんな他人との距離の取り方が下手な彼女はどうしてそのようになったのか、そしてそんな彼女はどのような現在を、どのような34歳の女性を生きるのか。このふたつが物語の軸であって、前述したように三束さんや聖はあまり多く登場するわけでもないし台詞も抑えられているから、それ以上でも以下でもないような気がした。
ただ、だからこそ「すべて真夜中の恋人たち」というタイトルに称賛を送りたくなった。川上未映子はかなり確信犯的に(作家だから恣意的に作り込むのは当然だ、という意味以上に)冬子や聖、そして三束さんという人物を本作の中で動かしている。他人との距離の取り方は器用とか不器用なのではなく、単に視界の問題かもしれない。とはいえ、視界がすぐに晴れるわけではないし、いつ晴れるとも分からない。そしてそんなふうに真夜中を生きている人間は、現実にごくふつうに存在しているだろう。等身大な人物を描くこと、は感情移入も生みやすいが、きれいに感情移入できるかどうかはかなり分かれるだろう。冬子の言動を読んでいてアホくさい、と思うのも一興だろうし。すべてはあなたが決めればよい。たいていの人は、真夜中に生きているわけではないのだし。
つい最近この本を入手しました。多くの方と同じように気にはなりながら原典には近づけなく気になる古典でした。タイトルは当然として、表紙、書き出し。初めての作者ですがその雰囲気作りに呑まれてゆきます。私は大阪梅田、お初天神界隈を徘徊していた人種として、またこの古典の結末は皆さんと同じように知っているだけになかなか読み進められないのです。多分大阪に住んだことのないはずの著者がどうしてここまですばらしい浪速言葉の微妙なニュアンスを取得したのか。感嘆すると同時に聞いてみたいところです。原典を入手しましたが江戸時代の古典とは言え、歯が立ちません。現代文で近づける事はありがたい事です。
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