この名著に今まで書評がなかったのに驚いた。李寧熙氏の仕事には、「牧歌的な万葉集にけちをつけた」という程度の感想が多いが、万葉集の言葉が日本語なのか朝鮮半島の言葉なのかは、
解読の結果で判断するしかない。自然科学の理論の妥当性を検討するのと同じだ。うまく現象が説明できているか、論理が首尾一貫しているか、予想ができるか、またその予想が確かめられる(確かめられた)かなどだ。更に、影響の大きさも評価の対象となる。李寧熙氏の
解読を見ると、全てをクリアしている。今まで全く見えていなかったものが見えるのだ。その理論は強力である。「千年の誤謬を解く」力を持っている。
氏の作業は、日本を理解するために、またこれからのアジア諸国との関係を考える上で必須である。何しろ、知られていなかった古代日本の歴史が万葉集には記述されているということなのだから。氏がここに至った理由は2つある。1)氏が韓国の国会議員だったため、日本と韓国の関係を歴史的に再考する機会があった。2)氏が、古代の方言を含めた朝鮮半島の言葉、日本語、漢文の全てに堪能だった。氏が万葉集に出会ったのは、万葉集にとっても、我々にとっても、実は画期的なできごとだったのだ。
こんな作業が出来る人は、まず他にいない。古代韓国語で万葉集を読み解くという仕事は他にもある。しかし、文章というものは、重要な単語一つが分らなくても意味が分らないことはよくある。辞書無しで
英語の文章を読んでみれば分るが、80%や90%の語彙力ではだめだ。肝腎なところを把握できない。「神は細部に宿る」のである。いわんや、万葉集を日本語だけで読むのは、
英語を
ローマ字と勘違いして(あるいはその逆)文章を読むようなものということになる。"To be to be ten made to be!"というわけだ。
日本語の起源には諸説あるそうだ。朝鮮半島の言語や
モンゴル語、中国の新疆自治区のウィグル語、そしてインド南部ドラビタ族のタミール語は、語順から日本語との類縁関係が指摘されている。私も面白い経験をした。新疆からの留学生にセミナーで日本語とウィグル語の対応を話してもらったことがある。助詞まで対応していて驚いた。実際、彼らは日本語がうまくなるのが速い。日本語は独特だと主張するのもよいかも知れないが、時間と空間において広い繋がりを認識するのは自然だし重要なことだ。