2001年宇宙の旅に並ぶ、SF映画の金字塔だ。
タルコフスキーはやはり凄いんです。
音楽ないのがいい。
宇宙空間はいたって静寂。
ソラリスが語り掛けてくる謎は、まるで
スフィンクスの謎のようだ。
タルコフスキーはいつも哲学的で深い。
そして、人の愚かさと、そんな脆弱さを包む深い洞察。
ヴィスコンティなら愛で包むが、タルコフスキーは知性で包む。
芸術家と哲学者の違いがあるが、やはり2人とも巨匠だろう。
長年、「
ソラリスの陽のもとに」として飯田規和訳で読まれてきた、レムの傑作の新訳。旧訳が
ロシア語からの重訳だったのが、今回は
ポーランド語からの直接訳、また旧訳の検閲による、原稿用紙40枚分にもわたる脱落カ所が復元された、というのが売り。
復元個所として大きなものは、「怪物たち」の章の p.197 12 行目から p.202 7 行目 (原稿用紙12枚分)、p.202 15 行目からp.204 5 行目 (4 枚分ほど)。「思想家たち」の章だと、p.284 11 行目から p. 294 まで 20 枚分強。「夢」の章ではp.299 最後から 2 行目から、p.301 の12 行目まで。
ただし検閲というから何か内容的にヤバイことが書いてあったのかと思ったら、全然。どれも、かなり衒学的な
ソラリス学の話を端折ったか、ちょっとダレ気味の描写を刈り込んだ、むしろ編集的な処理。また飯田訳のほうがこなれている。たとえば飯田訳のハヤカワ文庫版 p.175 で「指切りする?」と尋ねるハリーは、沼野訳では「聖なるものに誓って?」(p.178) とかなり大仰。たぶん飯田訳は意訳、沼野訳は原文の直訳に近いんでしょう。
比較すると、飯田訳は検閲や重訳による劣化がほとんどない。細かいちがいはあっても、大勢に影響はないところばかり。新訳を見ると、むしろ半世紀近く前に行われた飯田訳のずばぬけた優秀さが目立つとともに、なんでわざわざ新訳したのか、ちょっと疑問に思ってしまう。
もちろん改善は見られるし、今から読むならまあこの新訳のほうでしょう。でも価格差を正当化するほどの改善かというと口ごもる。いずれで読んでも、まったく理解できない存在に遭遇し、人が自分自身についての再考を迫られる、ファーストコンタクト哲学SFの不朽の名作としての価値はほぼ同じです。