竹内てるよ先生の最後の作品、ご苦労な一生を送られ、 私の母の年代だけに涙して読ませていただきました。 心から供養する、共に生活する,というところに感動しました。 私もこれからの人生頑張っていきます。
テレビで見てます。両親の生きている私は幸福。女性を悲しませない人生を送りたい。。。
謹んで皇太子殿下に申し上げたく存じます。やがては日本国憲法第一条によって「主権の存する日本国民の総意にもとづき」象徴天皇の地位にお就きになるあなた様は、幅広く日本国民のありさまを知ることに精を出しておられるでしょうから、きっと、きっと、本書をも座右に置いておられると思います。
生れて何も知らぬ 吾子の頬に 母よ 絶望の涙をおとすな
その頬は赤く小さく 今はただ一つのはたんきやうにすぎなくとも いつ人類のための戦ひに 燃えて輝かないといふことがあらう
生れて何もしらぬ 吾子の頬に 母よ 悲しみの涙をおとすな
ねむりの中に 静かなるまつげのかげをおとして 今はただ 白絹のやうにやはらかくとも いつ正義のためのたたかひに 決然とゆがまないといふことがあらう
ただ 自らのよわさといくじなさのために 生れて何も知らぬわが子の頬に 母よ 絶望の涙をおとすな
あなたのお母さまであられる現皇后陛下が、皇太子妃殿下であられ、さまざまなお悩みにうちひしがれていたとき(神谷美恵子さんからカウンセリングを受けておられたころでもありましたね)、この詩を読んで希望の灯をみいだされ、生きる力を得られたというエピソードは、皇后陛下ご自身が2002年9月にバーゼルで講演なさいましたから、もとよりご存じと思います。
この『海のオルゴール』を読みますと、ちょうどまさにその昭和30年代後半のころ、詩の作者の竹内てるよさん自身は、長年の別離の後にやっと再会できた一人息子を病魔に奪われ、ご自分も大病で生死の境にあったということがわかり、感無量の思いがいたします。
「頬」という詩のインスピレーションの源となった当のその子は、戦争で特攻作戦にまで駆り出されて、九死に一生を得て生還したものの、やくざの世界に身を落とし、塀の中の住人になり、やっと生活を共にできた実の母にもたびたび迷惑をかけたあげく、若くして病魔に命を奪われるという、薄幸きわまりない人生を送り、結局「人類のための戦ひに燃えて輝く」ことはなく終わったのですが、それはいったい、何のためであったのでしょうか。
私には、その息子さんもまた、現象的にはとても違う形においてではあるけれど、アウシュヴィッツ収容所で他人の身代わりになって亡くなった聖コルベ神父のような「代受苦の菩薩」であったのではないかという気がしてならないのです。
以上はかなり突飛な結びつけで、私の勝手な思い込みかもしれませんが、「こんなことを言うやつがいた」ということをお心にとめながら、この本をパラパラとめくり直してみていただければ、「主権の存する日本国民」の一人として、まことに光栄に存じます。
竹内てるよさんの波瀾万丈の人生を綴った『海のオルゴール』はまことに名著で、トックリスターさんがレビューしていたように「涙も出るが勇気も出る本」ですが、その彼女の詩を『海のオルゴール』に収録されなかったものも読んでみたいという人は、ぜひ本書を手にお取りください。
初期の詩には、生活史的背景がわからないものが多くて、少しピンとこないものもありますが、中期以降がいいです。
私が気に入ったのは、74ページの「麦笛を吹く子」、89ページの「まんさくの花」、137ページの「月見草」、141ページの「むかえ火」、143ページの「子供」、153ページの「雪の上の花」、158ページの「誰か非凡で」。
また、詩としてはさほどではないけれど、次に写す「日輪病む日」を読んでみてください。
いく百年に一度 来るという 日蝕の日の朝を早く 私は一杯の 清らかな井戸水をくむ
日輪が病むという日の つめたい水の清らかさよ 静かに くぬぎの枝々を渡る風よ
まずしい あけくれの静居にいて 私は この自然を愛しているであろう
空をゆく雲も 地をすぎゆくかすかなる風も 虫も そしてあのいたずらな小鳥たち 忘れてはならない親しい花々 空のかたわらに落日が消えるとき 大地に朝の霧が巻き上がるとき 私の心は こんなにも 熱く 正しく そして清い ああ誰が少しでもこれを汚すことが出来よう
いく百年に一度 日蝕は来る 以前の時に生れていなかったように 次に来る日に 私は生きてはいまい
けれども私は どんなにこの自然を愛しているであろう 雨に濡れて輝く椿の葉を 風に散ってゆく けやきの小さい花を
冷たい井戸水を このガラスのコップについで わたしは 誓っておこう 天地のあるかぎり 今日 この日が 天文学者や 研究家の記録に残るように 私の愛もきっと残るであろう 限りある生命で かく永久を愛する かなしき強き愛が
地球上の特定の一箇所で中心食(皆既食または金環食)が見えてから、次回同じことが起こるのには、平均300年ほどかかるそうですが、日食にはサロス周期というものがあって、それが3回重なると、54年と1箇月あまりで、地球上の非常に近い地域で前と似た日食が起こるという法則があります。著者が詩に詠んだ「日輪病む日」は、明らかに、本州南岸一帯が食分90%ほどの深い部分日食になった(八丈島では金環食になった)1958年4月19日の日食のことです。その3サロス後の日食が、今年5月21日に起こる東京金環日食です。
著者は2001年2月4日に96歳で他界されましたから、確かに「次に来る日に生きて」はいらっしゃらないわけですが、「かなしき強き愛」は確かに残っています。
|