来日初期、通りすがりの男前な日本人に見とれておいて、その日本人が英国人女性と結婚していると聞くなり「アングロ・サクソンがモンゴロイドなんかと!」と日記に綴った米国人少女クララの日記の下巻です。
上巻では白人至上主義臭の強かったクララですが、時を経る内に彼女はだんだんと日本に感化されていきます。来日間もない欧米人や、日本の事をろくに知らない欧米人の日本への偏見を聞き、大真面目に憤慨するようになり、かつては見下していた日本の文化や伝統に対しても深みを感じるようになり、かつては絶賛していた筈の欧米の文化と比較し、時には恥じ入るようになる。
挙げ句の果てが、日本人男性(勝海舟の三男梅太郎)との恋愛結婚です。
来日当初のクララに未来の事実を教えたら仰天するでしょうね。
ところでクララの日記には梅太郎の事はあまり出てきません。クララの一家は明治13年に一度米国に帰国しているのですが、帰国に際しての親友お逸との別離の描写から見ても、一家は再び日本の地を踏む事になるとは考えていなかったようで、まるで今生の別れのようでした。その際にも梅太郎の記述は少ない。恐らくこの頃の梅太郎はクララから見たら全く恋愛対象ではなかったのだろうなと思います。クララは1861年生まれであり、梅太郎は1864年生まれで三つも年下です。来日したばかりのクララは14歳であり、となると梅太郎は11歳。帰国時のクララは19歳であり、梅太郎は16歳。年下の仲のいい異性の幼馴染みという感じだったのでしょうね。日記の描写から察するに、クララが梅太郎を男性として意識するようになったのは再来日後からのようだと想像出来ます。
下巻の見所は、明治16年8月8日、クララたちが来日中の朝鮮公使をもてなした記述でしょうか。
当時の日本と朝鮮の関係がよくわかります。
下巻は明治11年7月から明治20年4月までの日記が収録されています。
表紙のイメージをクリックして大きくしよう。
向かって右は兄のウィリス,母アンナが死んだときにもらった弔慰金を基に病院を建て,貧窮者医療に貢献した。
左は妹アデレード。
真ん中で立っているのが,この本の著者「海舟の嫁」海舟の三男梅太郎の妻クララ。
出てくる人は海舟だけじゃない。
福沢諭吉は,おかしな英語をしゃべると書かれる。
津田梅子の父親,津田仙は何かと一家の面倒をみる。
ヘボン式ローマ字のヘボン夫妻には親しくしてもらう。
「ベルツの日記」のベルツに母アンナは何度か診てもらうし,彼は兄ウィリスの医学の最初の先生だ。
「日本奥地紀行」のバードはウルサイおばさんで,大森貝塚を発見したモースは神を信じない罪深い人だ。
それでは下巻も見てみよう。
面白かった。私のように他の地方から京都に住んでいる人には、京都人の裏側を知るよい書籍です。京都人にしてみれば、ザ・京都クオリティーという感じなのではないだろうか。
ともかくも京都人とはこういう人たちの集まりなので、私たち地方人にとってはこころのひだに入ってゆくのが途方もなく難しいところがあります。そういう京都人の中身を見せてもらって、京都人とも上手に付き合えるように頑張ろうと思いました。
ちびまるこちゃんの京都版といった感じの漫画です。
ただ、子供よりも大人向けの漫画だと感じました。
まぁ誰が京都が嫌いな人にはお薦めしませんけど。
オリジナルも良かったが、歌い手によってこんなに変わるものかと驚いた。
楽曲が良いのは勿論だが、やはり歌唱力、声質が重要だと言うことを改めて
認識した。世界にも通用する名盤である。そして、何と言ってもアレンジが
素晴らしい。大坪稔明による「夢の途中」などは世界をマーケットにしても
良いと思う。とにかくこのシリーズ123どれも外れがない。素晴らしい。
日本で教育を受けた日本人にとって、「かな」というのはあくまでものを書くための道具に過ぎない。
「あ」はどうして「あ」と発音するのか、「か」はなぜこんな形をしているのか・・・などということを改めて考えてみることもない。
だが、日本語を「外国語」として勉強した人にとっては、それらは非常に不思議で、興味深いものに見えるのだろう。
特にこの「小さいつ」は、それ単独では音を持たないという、不思議な文字だ。
童話形式で誰でもすぐ読める本書からは、
「不必要な人なんて誰もいない」
「身近なものも、改めて見てみると重要な意味がある」
など、いろいろなことを得ることができるだろう。
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