実の息子が被疑者となったとき家族は真実とどう向き合うのか?医者の母親、芸術家の父、幼気な妹、この家族構成で身内同士の葛藤。
裁判を中心としたストーリー展開には裁判ドラマが好きな向きにはアメリカの病んだ裁判事情も見え隠れして楽しめる内容となっている。
ここ何年かで久々のおもしろい映画だった。キャストも演技もいい。
5つ星超級。
画質はこれまで発売されたDVDとは次元が違う素晴らしさです。しかし字幕が酷い。正に「日本語に堪能な外人が直訳」したような感じで、映画の素晴らしさを台無しにしています。またブックケースも魅力がなくプレミアム感がありません。残念な商品です。
一人ひとり、この世界に入ったいきさつ、道のり、映画や演技への熱い思いがひしひしと伝わり、とても感動を覚えました!
特にバーブラ・ストライサンドは、もっと自己主張ばかりで扱いにくい女性なのかと思いきや、インタビュー中、とっても女性らしさ、かわいらしさがのぞいていて、特に「お腹空かない?」といってキットカット食べて大喜びするところなんて人間味溢れていて、見なおしてしまいました!
超かわいい〜んですね、話し方や仕草が・・・!
4人とも素晴らしく、共通しているのは、
俳優の隅から隅まで知り尽くしていないと、監督としてその俳優の持ち味が引き出せないなど・・・情熱がよっぽど無ければこの世界続かないだろうことが、とてもよく理解できました!
アクターズ・スタジオシリーズは、すべて観たくなりました!!
1964年、小さなカトリック学校の日常的な出来事。映画化は困難と思われた。ベースとなったのは、登場人物わずか4人の室内劇だったから、映像的広がりがイメージできなかったと思われる。一般に本作品は、メリル・ストリープとフィリップ・シーモア・ホフマンによる火花散る演技対決が最大の見物の映画として広まっているし、物語の上でも二人が最重要キャラクターと思われている。しかしDVD特典映像で、神父に性的虐待を受けた疑いのある生徒の“母親役”ヴィオラ・デイヴィスが「実は、主役は私よ」と語っているのを見て、それがいかに間違った認識かを思い知った。
監督ジョン・パトリック・シャンリィはどうして中々才人で、二人の演技派俳優を使いこなし、若い二人の女優に素晴らしい演技を引き出した。だが「確かなことは何もないと、我々は人生を通して気づく。だがときに人は(不確実な状況で)行動を迫られる。不確実な世界で、確信を持つことの難しさを本作をとおして実感できる」という彼の弁にはがっかりした。不確実なことが“確実”であるかの彼のシンプルな発言は、むしろ作品を貶める。確信を持つことが難しいかどうか、それもまた不確実であると言わなければ、ホフマンの余韻を残した意味ありげな行動も、ストリープの鼻先で作るせせら笑いも、ヴィオラ・デイヴィスによる「どんでん返し」的告白も、途端に色褪せる。
真実はどこにあるか、が気になる人は、その時点で監督の罠にハマったと思いたまえ。
「そんな疑いだけで、それを確信しちゃっていいのかい」と思っちゃうほど、
メリル・ストリープ演じる校長先生の執念、追及が凄いです。
そして「お前、ほんと怪しく見えてくるなあ」と思わされる、
フィリップ・シーモア・ホフマンの物腰。爪。
自分にも他人にも厳しい、生徒から恐れられている校長先生と、
革新的で、許容が広くて、生徒からも慕われる神父。
学校に新しい風を吹き込もうとする神父を、
受け入れられない感情から来る、校長先生の思い込みなのか?
とも思う。
こういう、性的虐待みたいな出来事ってのは、
深入りしたくないというか、真実を考えたくないというか、
「ああ、思い違いで良かった」とか思いたいわけです。
例えば、隣の家で毎日子どもの泣き叫ぶ声が聞こえても、
「何かしつけの一環だろう」と思いたい。
ひどい事をされているなんて考えたくない。
「通報しても、もし間違いだったら?」
「私、隣の人に恨まれてしまう」とか、そういう感情が湧くのが自然だ。
疑いを持って、そこから行動を起こす事って、とても勇気がいる事だと思う。
最後の最後で、ウィリアム・ロンドン少年(名前うろおぼえ)が、
ニヤリ、としたのが、なんとも意味深だったです。
「おい、お前、なんでニヤッとしたか。その理由を教えろ」と思わせられた。
それにしても、「プラダを着た悪魔」といい、
こういう感じのメリル・ストリープ、好きだなあ。
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