バッハの「ミサ曲ロ短調」は、ベートーヴェンの「荘厳ミサ曲」と並び、全人類的音楽として並び証されている。それまでの教会の典礼の場で演奏されるためのミサ曲ではなく、純粋な音楽として、神とキリストと人類とを結び付けんとする信仰を謳いあげたものである。この曲はバッハ晩年の作品であり、周知の通り既作の転用やパロディが数多く楽曲を構成している。バッハ自身が気に入っていた楽曲の主題を転用するというのは珍しいことではないが、この曲は明らかにその比重が大きい。なぜ、そうしたのかは不思議だが、この後、「音楽の捧げ物」や「フーガの技法」などの作品を残していることから決して創作意欲や霊感が衰えたわけではなかろう。既存の楽曲に新たな生命を吹き込むためか、ただ単に気に入っていただけなのかは分からぬが、全体の楽曲構成はそれらの単なる羅列ではなく、実に調和の取れたものである。例えば、第六曲が歌詞を変えて終曲で再現されるのは実に感動的である。バッハは信心深いプロテスタントであったと伝えられているが、ミサはカトリック特有の儀式である。バッハがこのミサ曲を書いた事は宗派という点で違和感があるかもしれないが、明らかにこの曲はカトリックの儀式のためではない。宗派を超えた全人類的ミサ曲であるというのはそのためである。
クレンペラーは晩年になってこのミサ曲を録音した。それがこの演奏であるが、クレンペラー自身はこの録音をたいそう気に入っており、何度も自分で聴いていたそうである。なるほど、確かに素晴らしい演奏である。巨大であるが決してもたれる感じはなく、力強さが伝わってくる。ソリストも楽曲に奉仕する表現で美しい
アリアをつむぎ、合唱団も真摯な祈りを迸らせる。クレンペラーはバッハの専門家というわけではないが、宗教音楽ではクレンペラーの資質と合うのか、実に感動的な演奏をする。古楽器の演奏も良いと思うが、感動という点ではリヒターやクレンペラーには劣る。むしろ、そういった議論を些細なものと思わせるような演奏を彼らは成し遂げ、それはこの楽曲が普遍的であることを証明するものである。
芸術は確かにその領域で鑑賞し、楽しむものであるが、この「ミサ曲ロ短調」には芸術の垣根を越えた思想に裏打ちされている楽曲であろう。教会という狭い範囲のものではない、神、世界、人間の存在についてのバッハなりの思想の表現ではないかと思うのである。