まさか、自分が中河与一、それも「天の夕顔」を読むとは全く予想もしていませんでした。実はちょっとこの人物に興味があって、小説を読もうと思ったのです。興味というのは故平野謙氏が戦時中に左翼文学者のリストを官憲に渡したのは中河与一だと名指し戦後文壇にあって中河を干してしまったことを思い出しまして…。それに中島健蔵氏も加担させられたということらしいのです。もう四十年ほど前のことになるのですがある人物を介して晩年の中島健蔵氏と音楽のお話をする機会があり、中島氏については立派な印象しかなく、いずれは戦後文壇のお話などもうかがいたいものだと思っていた矢先に中島氏はなくなりました。さて、そのような次第で真相はわからないのですが、中河を名指ししたのはどうも平野謙氏の保身だったらしいのです。そんなこんなでいずれも立派な方々が、どうして色々とやってしまうのだろうかと不思議に感じていたことをフト思い出しまして、ついては渦中の中河与一の代表作一つも読まないのは何となく自分が許せない感じが最近してきたので、読んでみました。そしてビックリ。
文筆家としてのレベルの高さが全然違います。うつ世を跋扈するいい加減な文筆家とはその発するものが全く違います。まず文体のこの簡潔さと独特のテンポ、それでいながらきちっと温度と質感がある。この小説は内容もさることながら、このような言葉の質感に支えられて長く読んでいたくなる文体で書かれています。
もちろん、内容は異常とも言える愛情譚ですが、それがスクッと入ってくるのは鍛錬された文筆の力だからです。決して素人にはまねのできない本当に力のある小説家の練熟の技術に磨かれた日本語の連続です。
この連綿と続く言葉の流れに単に身を任せれば通読できる見事な小説に、今、この年齢で出会うとは思いませんでした。美しいです。まずは現今の倫理感を一旦捨てて読んでみましょう。確かに今様ではストーカーなどという言葉も考えようによっては浮かびそうな内容ですが、そんなものをいったん捨てて、この連綿とした日本語の世界に浸ってみてはいかがでしょうか。
文句なし☆5つです。
「隠された文壇史」をサブ
タイトルにしていますので、実質これを書名とすべき本文内容です。普通の感覚では、人に知られたくない、秘すべき内容であろうかと思います。しかしながら、作家研究あるいは好みの作家の実像を知りたい場合、こういう書はなくてはなりません。真実ゆえにです。意地悪く裏面を暴き出すのを目的にはしていないはずです。スキャンダラスなことばかり書いてくれてと、不快に思う関係者がいるかもしれませんが、著者もその点は心配りした上で「同時代を生き、彼らを深く敬愛した人間の愛情の言葉として受取ってもらえればこの上ない」と願っています。
〈永井荷風〉放蕩作家が密かに愛しつづけた一人の女性…。
〈谷崎潤一郎〉三人の姉妹と同時に関係を持ったある真相…ナイーブと幼稚性の同居。
〈志賀直哉〉神様に魅せられて食われてしまった人々…善意の人志賀直哉が生む芸術の魔力。
〈太宰治〉公表されなかった
芥川賞落選の裏舞台…佐藤春夫に泣訴状。
〈三島由紀夫〉耽溺の欠落が招いた優等生の悲劇…陽明学にも葉隠にも結びつかぬ。