澤宮 優さんの書かれた『生徒がくれた“卒業証書” ~ 元都立三鷹高校校長 土肥信雄のたたかい』に続き、今度は、土肥校長自身が書かれた『それは、密告からはじまった』を読みました。
こよなく生徒を愛し、優れて民主的な学校運営を続けた土肥信雄さん。ほとんどすべての生徒と保護者から愛され、支持されてきた稀に見る校長先生を、東
京都教育委員会と石原知事が任命した将棋棋士の米長教育委員は目の敵にし、権力をもって弾圧・陰湿なイジメを行ってきましたが、その実態が本書では、事実をもって淡々と語られています。ただし、土肥さんの心は熱く、叙述はユーモアに富んで楽しいですが。
これを読むと、東
京都教育委員会の「狂気」という他にない言動の意味が分かります。戦前と同じく、特定のイデオロギーにつく行政=政治がもつオゾマシサ・危険性が戦慄と共に明白になります。現場・当事者の意思を無視し、上位者のもつ特定の思想を強権によって実現しようとする事がどれほどの「悪」であることか。彼らの所業は、近代市民社会の常識を大きく逸脱し、根源悪と呼ぶほかありません。
本書を読み、一連の出来事の「事実」を知ってなお、東
京都教育委員会に理があると思う人は、おそらく唯の一人もいないでしょう。議論すること自体を認めない!!という教育とは、酷い管理でしかありませんが、管理と教育が二律背反であることさえ知らない人が教育行政に関わるとは、ただ絶句あるのみです。管理とは機材や設備、あるいは品質について言われることであり、人間を管理するというのでは、悪未来のSF小説でしかありませんし、歴史的には、ヒトラーのナチズムや戦前の天皇制下の軍国主義における人間抑圧そのものです。
いま、土肥さんは、東
京都教育委員会を相手に裁判をしていますが、この裁判で万一土肥さんが「敗訴」するなら、わが日本の民主主義は完全にオシマイでしょう。繰り返しますが、本書を読まれてなお、土肥さんに非があると思う方は、一人もおられないと思います。ぜひ、ご一読を。
「教育現場で私は生徒に「自分の思ったことははっきり言いなさい」と指導してきました。ほとんどの学校の教育目標に「自主性、主体性」という言葉が出てきます。私は、それを生徒に教えた責任からも、自分の思ったことは言わずに、不当な権力にへつらうことは出来ません。・・・今回提訴した一番の理由は「生徒のために」です。私の教えた生徒たちが自分の思ったことを自由に発言できる社会にしたいからこそ提訴したのです」(土肥信雄・本書106〜7ページ)
みなさん、この問題に限らずですが、私が、自分が、できることをしてみませんか。評論家のような生き方はよい人生ではありません。小さな勇気ある行動・よき行為によってのみ、人間の生は、意味をもち、価値づく、わたしは、そう思っています。
武田康弘