「霧雨に
紅色吐息」『すばる』二〇一二年八月号
金魚と会話しながら旅人を装い故郷の田舎町を訪れた視点人物=流奈(六十歳)の目的は生涯数度に亘って己の人間性を翻弄した一人の医者を殺すことだった。医者は流奈の破瓜の相手でもある。予想は付いたが、読み進めるうちに震えが来た。短篇としては作者の最高傑作の一つではなかろうか?
「カダケスの青い小箱」『すばる』二〇一二年十二月号
家族の期待を一身に背負い、やがて挫折し、
ダリ好きの画家との結婚にも破れ、誰も自分を知る者がいない東北の港町に引き込んだ姉の魂を解放するため、流奈は姉とともに、かつて
ダリがガラと暮らし、姉もまた画家である元夫と暮らした
スペインの地、カダケスを訪れた。読み勧めてすぐに判るが姉は死人で作中に明記されてはいないが死因は東日本大震災である。これも素晴らしい短篇で、青い箱に入れられた蝶が飛び立ち仲間と飛翔するシーンが単なるラストとではなく、そこからどこまでも物語りが拡がって行く様が驚きだ。。
「
猫に雪茸まろびつ濡れて」『すばる』二〇一三年三月号
高学歴の女との結婚に破れ、最愛の娘も奪われた寺社彫刻師(見習い)の息子の元に、流奈は六歳になるその娘を最後の機会と知りつつ連れて行くのだった。前半は前二作同様癒しの雰囲気で進むのだが、後半、
猫と雪茸のエピソードから話が毀れ始める。最終的に現実と幻想の見分けが付かなくなるが(このエピソードではまだ現実寄り)、詰まらないかと言えばそうではなく、少し安物の玩具で遊ぶ楽しさがある。
「桜ふぶきいのちの宵闇」『すばる』二〇一三年七月号
子供の頃に殺した(と本人が罪の意識を感じている)心臓が悪い六歳の隣家の少女と、その少女に呼ばれてサイコロ
キャラメル一個と引き換えに交通事故で死んだ自分の六歳の娘に流奈は伝えねばならないことがあるのだった。最終話は流奈本人の死の瞬間が描かれる。が、前作の語り口調が妙にねっとりと残っていたりして、お話としては毀れている。前半と後半もストーリィ的には乖離しているが、予想通りの大団円を迎えて膜を閉じる。
全体的に意図は十分に伝わるが作者が遊び過ぎて均衡を欠いてしまった印象は拭えない。最初の二話だけなら完璧だろう。最終話のラストも作者がかつて『飛水』で試みたような緊張感とその解放のような構図がなくて唯てろてろと緩い印象だが、遡れば第一話で流奈が己のすべてを解放してしまっているのだから当然の帰結と言えるのかもしれない。あるいは作者が年齢を重ねてから自らに課しているという女視点の表れかもしれないが、その視点での作品にはまた別の傑作があるのでおそらく違うだろう。
いきなりDVDを見た方には、秋吉久美子のヌードやら、セックスシーンやら、そんなところばかりに感想がいっているように思えますが、原作を読んでから見ると、結構、ずしんと来るものがあります。年齢を感じさせず、女を演じる秋吉久美子はすごい女優と思いますよ。ただ、相手役の永島敏行は、生真面目な性格がこの物語に登場する郷とは、かけ離れていて、ミスキャストに思えました。かといって、ショーケンが良かったかというと、それもちょっと違う気がします。少し若いけれど、
佐藤浩市なんか、はまり役かも。
お金に困って、身体を売るという設定にしては秋吉久美子がきれい過ぎたのかもしれません。物語としては、いい小説なんです。是非、原作も読んでください。
金沢・鶴来町、最後の野鍛冶の娘(離婚し娘一人あり、42歳)は父が若くて健在だった25年前にドキュメンタリー番組を制作した当時新人アシスタントだった男(小さなテレビ番組の制作プロダクション社長、47歳)と再会する。互いの照れと父の入院代の工面を建前に、やがて愛人関係となった二人だったが…… 最終章で娘の娘が視点人物になって老いた母を語る以外は、ほとんど主人公二人の会話及び行動だけで成り立っている(人物としては惚けの進んだ元野鍛冶の父や娘の親戚で旧家を改装した旅荘を守る女や、男の部下などが出てくるが、男の家族は一切出て来ない。会話で語られるだけである)。読めばわかるが、千桐という名の娘がとにかく可愛い。大人なのでエロティックを含めての可愛さなのだが、物凄く透明で無邪気でストレートで恥じらいがあり潔い。性愛は後に二人に訪れる死別と対比されて読後さらにイメージが深まる。大人の夢物語といえば、そうなのかもしれないが、最後に母に羨望を覚えた娘の感覚は、この本の読者すべての共有財産でもあるのだろう。表題の「透光の樹」は『森のように見えるが』『根元が四、五本に分かれたうえ、うねるように枝を張っている』『全体が一本の木』(杉)を指し、最後にはガジェットにも利用されるが、その形が意味するところは自明である。
人は性愛に何を求めるか?最初は単純に性的な欲望、次いで若かりし頃の純真や情熱を取り戻したいという欲望、そして自分の存在を相手に埋め込みたいという欲望... この性愛に対する欲望の深化は、人の持つ性(さが)そのものである。そして、この小説は、そうした人の性(さが)を克明に描いている。
もうひとつ、この小説が丹念に描いているのは、男女関係の妙である。こんなことを言えば(すれば)相手はこう思うだろうな、と思いつつ、違うこと、正反対のことを言って(やって)しまう。ところが、そうして言った(やった)ことを、相手はまた別の形に誤解して受け止めてしまう... そんな男女関係の機微を、メタレベルの小説視点で描写していて秀逸。
こうした男女の関係論をクリアに描き切るために、著者は前半では「金銭契約」、後半では「死」という道具立てを用いるのだが、これがまたうまく機能している。で、著者が男女関係の真髄、恋愛の究極として掲げるのが“欠落感”ってワード。「その人がいない状態、いなくなった状態の、どうしようもない欠落感。僕の考える恋愛には、それが在る。恋愛でないものには、それが無い」。やっぱ、自分が気持ち良くなりたいってのより、相手を気持ちよくさせたい、相手の記憶に己を刻み込みたいって欲望に性愛が至るのって、結局はそういうことなんだな、と納得できる。つまりは、相手に自分を“欠けたものの存在感”として認識させるってこと。この小説はさらに、その刻み方、埋め込み方も、正常位のように相対するのではなく包み込むように重なった形と、具体的な体位によってその一体感のイメージを提示している。
究極の恋愛小説ではあるけど、あまり恋愛を身近に感じられない者にとっては、いまひとつのめりこめないというか、主人公2人に置いてかれっぱなし、って感もある。恋愛を求めている人、恋愛の渦中にある人には文句無くお勧め!