抱擁家族 (講談社文芸文庫)
知的職業と一男一女がある家庭が妻の姦通から崩壊する。どんな時代にも国にもあるコキュの物語である。家の崩壊という主題は白人種では父権の不在から神のそれへ、日本では自我問題へと至るので、作家なら一度は取り扱いたい主題らしい。
だがこの小説でわたしが瞠目したのは、主人公三輪俊介の性格造形である。他の登場人物はみなつまらない人間ばかりなのだが、三輪俊介だけどんな(欧米も含む)小説にも現実にも会ったことがない人間性を感じたのだ。「いや、ドストエフスキーの作品にこんな性格の男がいたはずである」という意見もあるかもしれないが、すこしそれは違う感じがする。三輪には薄気味悪くかつ欠落を感じるのだ。さらに小島氏の分身という感じでもないし、戦後を象徴する人物にしては難解なのである。あとは読んでもらうしかないのだが、たんなる家庭崩壊の小説として読むにしても、三輪俊介を観察するのもまた一興と思われる。
月山・鳥海山 (文春文庫 も 2-1)
この小説を評するにあえて「風雅」という言葉を使いたい。人為的な花鳥風月の愉しみのもたらすような甘い「風雅」ではない。あの西行や芭蕉がそうであったように、己を飾る余分な装いを捨てて捨てて捨て切って「凡」のただ中に塗れながら、そこから自ずと射す出ずるような「風雅」である。〈生き物〉であることを免れない私たちの生活は生/死や清/濁、美/醜あるいは聖/俗の淡いの中にある。特に清・聖・美は死と同様にこの世の外のものであるが故に、それを掬った思えばたちまちその先にこぼれ落ちる「水の中の月」のようなものだ。月山の懐深く入りながら更にその彼方に死の山たる月山を望む冒頭の描写はまさにこの淡いを印象深く語っている。そもそも「未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん」という『論語』を引用した序詞こそこの機微を凝縮した一句となる。山渓の陬村で繰り広げられる人々の暮らしは俗悪とすら言うべきものだが、それが冬の厳しい気候を通じ切り詰められ切る中、一筋の崇高なるものがおぼめき出でてくる。それはあたかも浮浪者の死骸を燻蒸して木乃伊を作ることにより、木乃伊が聖なるものへと変容するようなものだ。だがこの聖なる木乃伊もまたたちまちに俗世の貪欲の道具として再び塵芥のように扱われてしまう。そのようにして我々は聖に届きながら死に届きながら、俗悪に汚穢に突き返されてしまう。その循環を受け入れ生き抜くことこそが究極の「風雅」なのだ。この本の中で月山は単に月山だけではない。作品中に著者が放浪した吹浦や酒田のような出羽の町々、川苔のぬめりの汚穢を通じ死の彼方から再びこの世に帰還する「グリ石」にこの生死の淡いの道理が啓示される弥彦山中、さらには彼がかつて暮らした熊野の奥地や朝鮮凧によって「つかみ得ぬもの、掬い得ぬもの」に初めて遭遇した幼き日の京城の追想まで、著者が訪れた地の全てが遙か彼方の真の月山=死の月山を指し示す無数の月山となって、一大交響楽を奏で始める。やはり心に残るのは豪雪のさなか寒を凌ぐため著者が籠もった反古紙で作った蚊帳であろう。それは確かに人生に煮詰まり死に抱かれたこの地に零落した著者が、蛹を経て成虫へと再生するための繭に違いない。彼の死から生へ聖から俗への再生に応じるように、そこ陬村にも梅が咲き桃が咲き桜が咲き春が盛りを迎えていく。だがそれは同時に深々と降る雪に清められたこの村のあちらこちらに、人々が撒き散らした人糞が雪解けと共に再び顔を出す季節でもある。方言をうまく使いながらしみじみと語り紡ぐ文体は、その独自性故に当初取っつきにくいかも知れないが、読み進めるうちに次第に不思議な安堵感をもたらしてくれる。趣は多少異なるものの稲垣足穂の佳編『弥勒』を思い出させるところもあった。〈文〉の力による命の蘇りを体感したい方は一読されたい。
ワインズバーグ・オハイオ (講談社文芸文庫)
「グロテスクな人々についての本」というまさにこの本のことを一言で言い表す短編から始まる。
グロテスクとは、化け物という意味である。この本で言う化け物とは決して想像上の恐ろしいものや、ファンタジーなどではなく、誰もが持って生まれた「魂」に抗えない人々の姿であろう。
「魂」は自分でもわからないうちに暴走して、思わぬ結果に陥る。
しかも、その魂という真実を自分のものにして、それにもとづいて自分の人生を生きようとするとたんに、その人はグロテスクな人間に化してしまい、彼が抱きしめている真実も虚偽になってしまう。
歯切れの悪い物語の連続かもしれない、でも読み終えても、物語は終わらずに、
心のなかにワインズバーグの行き場のない人々が生きていることに気がつく。
終わりの解説からの引用になるが、それらの人々はみんな「魂の突き当り」であり、人間のギリギリ決着のところである。
日本の漫画でいうと「いましろたかし」だし、映画でいうとアメリカンニューシネマ。
普段スポットライトの当たらない弱い人や、どうしようもない人への優しい眼差し。
それらが僕ら読者に迫ってきて、恐ろしいものに面接していることに気づかされる。
対談・文学と人生 (講談社文芸文庫)
独特の用語法と語り口で作家両名が創作論を交わした文学対談。正直なところ、決して読みやすい日本語を操るお二方ではないため、スラスラ読むというのは難しくじっくり味わいたい一冊だ。
「文学と人生」というタイトルだと文学好き達による人生論や読書論の本みたいだけど、実際は小説の中にどう現実世界を連結させるかとか、随筆的筆法や私小説に関する濃厚な話が展開されており、そういう意識で創作された小説というのは、結局、彼らの作った作品がそうであったように作家の生活や人生が色濃く投影されたフィクションになる。読み進む中でやっとこの境地の話が理解できた僕は、この書名でもまあ別に問題ないんだろうな、ということにしている。
なお、解説の坪内祐三の指摘によると、小島信夫の小説「別れる理由」は両者の対談で終わっており、本対談はこの小説の続きとして展開しているという。「内部と外部」「密閉と非密閉」といった両者の語る独特な文学コンセプトがそのまんま本対談の存在に「成っている」という設計もお見事。若き柄谷行人のヤンチャなエピソードが紹介されているのも、なんか微笑ましくて面白かったです。
死者たちの語り (コレクション 戦争×文学)
霊的存在を死者と見立てる場合、二類型になってしまう、と思った。
一つは、花が咲く/枯れる、提灯の火が点く/消えるなどということとシンクロして現象としてははっきりとその神秘さが感じられ理解されるのに、それがはっきりと死者の人格を保っているわけではないということである。
もう一つは、人格的個性ははっきりとしているのに、名前が出てこない、在る事、存在することは判っているのに、それがどのようなものでどのように在るか、を説明し言葉にしようとするとなかなかできずに、そういう者としてしか表現できないということだ。
これは、霊的存在が実際、死者ではないということを示しているのかもしれない。が、勿論、死者との距離がそういうものでしかないというだけのことかもしれない。
こういう短編集を編むということは、普通の書籍にはない編者の才覚から蒐集力までが存分に発揮されることから、著者とは別に編者が前面に出て来ざるを得ないことも本企画を面白くしている点の一つであろう。