夜は短し歩けよ乙女 (角川文庫)
1,2章を読んでいる間は、「ユニークだな」「漫画みたいで読み易い」と思っていました。
しかし、3,4章では、「学芸会みたいでレベルが低い」と思ってしまいました。
理由は分かりません。
内容的に、1,2章が”不思議な世界”なのに対して、3,4章が”想像可能な学生の世界”に見えたからかもしれません。または、”不思議な文体に慣れて、新鮮味を感じなくなった”からかもしれません。
どちらにしても、もう、同種の作品を追加で読みたいとは思えません。
ふがいない僕は空を見た
R-18文学賞大賞作品「ミクマリ」の斎藤くんとその周辺の人々をめぐる連作短編集。
出だしから、うまいなーと感心しながら読み進める。でも、そのうまさというのはプロのライターの書く小説の上手さであり、正直、性やコスプレが題材に使われることには抵抗があった。性と生はすごくつながっているんだけども、うーーん、という感じで・・・。
「セイタカアワダチソウの空」を読んでびっくり!
抑えた文章の中に確かに存在するのは、まぎれもなく山本文緒氏の評するところの「この世に生まれ落ちることの苦悩と喜び、その凄まじい痛みに涙が出た」このままの心境になったのである。淡々と爽やかに描かれているけど、けなげに冷静に自分の運命を受け入れている福田くんに涙した。田岡の哀しい習性と人間臭さにも・・・・。
この一編がすべてを物語る。すべての登場人物を理解できる。
つまりそれぞれの登場人物が見上げた空は、ふがいないけど、どこか優しい空気で繋がっているということだろうか。
結果的に、今生きている人々の抱える問題や貧困、孤独感もきちんと描かれて山本周五郎賞にふさわしい作品になった。
天地明察
小説の書き方は自由である。
だが、歴史小説を書くときには、一定のルールがあると思われる。
骨は事実である。ただし事実だけでは小説にならない。
わからないところは作者の想像で埋める。
その想像が小説としての骨になる。
まず前者の骨に数々の誤謬があることは、ほかのレビュワーの指摘にあるとおりである。
後者の骨については、あまりにも現代的な解釈が施されすぎていると僕には思われる。
この時代の人が本当にそう行動したであろうか。
ただし、この作家の解釈については作家の自由であるから、好き嫌いの判断になるわけで、
僕の好みではないというだけである。
僕の好みではないのはもうひとつ、笑いのとり方が稚拙である点である。
「ほんとうにおもしろいこと」と「おもしろそうなこと」は違う。
作者は「おもしろそうなこと」を、「笑え」という命令記号とともに
書いているので少しも笑えないのである。
“「えん」という名を炎と言う字とは言えなかった”と書くが、
笑えない。
謎解きはディナーのあとで
えーと、図書館で借りて読みました。
まさしく大正解でした。
最近の萌を反映したような設定。文章。
面白かったです。
面白かったですがこれはキャラ萌小説の類だと思われます。
執事とお嬢様のキャラ小説も悪くないと思いますが、読み返す気にはならないです。
読み返したくなるような内容は無かったと思います。
ささっと立ち読みか図書館で借りるので十分かと。
正直この本が本屋大賞を受賞したのなら、本屋大賞はかなりレベルが低いのでしょうね;
舟を編む
玄武書房の辞書編集部は新たな辞書『大渡海』の出版を企画する。中心となるのは変わり者ではあるが言葉に対して人並はずれた感性とこだわりを持つ馬締光也。しかし『大渡海』が世に出るまでには予想以上の時間が必要だった…。
今年2012年発表の本屋大賞に輝いた小説です。
馬締光也や同期入社の西岡正志、辞書編集部に配属された入社3年目の岸辺みどりといった面々をそれぞれ主人公とする短編が連なる連作集のような構成になっています。
辞書作りのバック・ヤード話は確かに興味深いものです。
掲載する単語を選ぶ際に、何を基準として選ぶのか、語意を説明する文章の長さはどうするのか。
頁数が膨大になるのが常の辞書ならではの、薄くても裏が透けることなく、一定の強度をもった、そして頁を繰る指に適度にからまる紙の開発話。
ゲラがあがってきたところで、本来収録してしかるべき単語が抜け落ちていたときにどう対処するのか。
こうした辞書作りという地味な作業における労苦の数々を知る楽しさは、確かにこの小説にあります。
しかし、わずか260頁程度の短い作品であるため、登場人物たちが辞書作りの途上で人生にとって大切な何かを学び、そのことで人生の舵を少し切る様子が、短兵急に描かれているのは否めません。長年月の間、辞書ひとすじに携わった馬締たちの思いが読み手に説得力をもって伝わらないのです。時間をじっくりかける紙幅がないためか、彼らが“学ぶ”過程は、時間とともに達成された熟成というよりも、まるで神からの突然の啓示のごとく唐突です。
特に辞書『大渡海』の監修者である松本先生の存在がとても薄いことに落胆しました。
小説の終盤に彼がたどる姿を見ても、それまで彼がどのように『大渡海』に熱くかかわってきたのかがほとんど描かれていないため、先生に対して馬締が感じるほどの強い思い入れが、私の心の中に生まれなかったのです。先生には出版会社の社員とはまた異なる意味の、彼自身の辞書にかける思いと命のほとばしりがあってしかるべきなのに。
辞書編纂にかける人々のやけどするほど熱く、鬼気迫る姿を描いた書にはもっと優れたものがあります。かつて私が心躍らせながら読んだ2冊の書を以下に紹介しておきます。
サイモン・ウィンチェスター『博士と狂人―世界最高の辞書OEDの誕生秘話』(ハヤカワ文庫NF)
高田宏『言葉の海へ』(洋泉社MC新書)
*42頁にある「現実を鑑みるに」という表記は誤りです。「現実に鑑みるに」というのが正しい助詞の使い方です。