緋牡丹博徒 二代目襲名 [DVD]
鉄道工事に実績のない矢野組に引き継がせるなどちょっと無理があるように思えるが、映画の進行上からはそれほど違和感はない。賭場の場面のない任侠映画であるが、時代の移り変わりも反映して日本の発展期の雰囲気が出ている。暗いところのない楽しめる映画に仕上がっていると思います。
文士の戦争、日本とアジア (新・日本文壇史 第6巻)
葦平、泰次郎、泰淳、知二、順、宏、鱒二、道夫……、文士が、続々とアジアの戦場に出る。彼らは満州から中国、フィリピン、シンガポール、ビルマ、インド……、大東亜共栄圏のために積極的にしろ消極的にしろ陸海空で戦う。
そして著者は読者を道ずれに、にわか戦士となった文士のその足跡を、執拗に追う。追いながら、その抽象的な戦争体験ではなく具体的な戦場体験を疑似追体験しながら生々しく執拗にあぶりだす。戦争体験と戦場体験は天地ほども違う。
戦場は普通の市民を狂気に駆りたて、精神を錯乱させて地獄の亡者に変身させる。この世の修羅に全身を晒した彼らにとって、もはや理非曲直を冷静に判断することはできない。頭でっかちの歴史観は蒸発し、血と殺戮と動物的本能だけが彼の知情意を支配するのだ。
兵士相手の慰安婦たちの手摺れた肉体にはない村落の中国人女性の肉体を犯すことでおのれの肉体奥深く仕舞いこまれていた官能の火が消せなくなった文士がいる。中国兵を殺さざるを得なかった文士がいる。そして、それは、僕。それは、君。
中国女を強姦し、中国兵の捕虜を斬殺し、強盗、略奪、放火、傷害その他ありとあらゆる犯罪を意識的かつ無意識的に敢行する「皇軍」兵士と、その同伴者の立場に立たざるを得なかった文士たち。この陥穽を逃れるすべは当時もなかったし、これからもないだろう。
ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す 宮柊二
恐ろしい句だ。悲愴で真率の句だ。そして彼らは、この惨憺たる最下層の真実の場から再起して、彼らの戦後文学を築き上げていったのである。
私たちは、「戦争はいやだ。勝敗はどちらでもよい。早く済さえすればよい。いわゆる正義の戦争よりも不正義の平和の方がいい」、という井伏鱒二の言葉をもう一度呑みこむために、もう一度愚かな戦争を仕掛けて、もう一度さらに手痛い敗北を喫する必要があるのかもしれない。
花と龍 [DVD]
前年の「人生劇場」とほぼ同じ役者なので、なんとなく「人生劇場」の延長で観ることができる映画です。
主題歌は同じく美空ひばりさんの「花と龍」。
物語は、原作の前半を、省略した形です。この件については加藤監督が、原作者が描きたかったのは、「後半部分」という判断が働いたようです。これには異存なし。全編ですとかなり長い映画になってしまうからです。
さて、演出は、この監督の特徴の「別どり」なしの「オールシンクロ」ゆえ、やたら聞きにくいせりふもありますが、役者の演技の迫力は出ております。このことが、映画に躍動感をもたらせていると共に一気に、物語より、大体こんな男と女がいたんだよ、という大まかな提示で観客を惹き付ける勢いを生み出すことに成功しております。
実際、物語は大体、おおまかに追っていればいいのです。その時折に出てくる「義理」の深い思いやりと正直さに触れれば良いと思うのです。そのことに関しては本当に良いせりふ、良いシーンが散りばめられております。まあ確かに、迫力はあってもせりふは聞き取りにくい、ドラマツルギーが飛躍的とか言う突っ込みはできると思います。しかし、そんなことより、登場人物の優しさ、正直さ、純粋さなどに触れる映画だと思います。そういう「魂」の映画でしょうか。「無法松の一生」といい、小倉、若松周辺には何でこんな気風の良い粋な人たちがいたのでしょうか。そういう「恩」を忘れない人間を観ることができると思います。そういう登場人物を描ききれているからこそ、満点だと思います。
商品として、「解説」の冊子がついております。特典映像は、予告編のみ。(人生劇場、の予告編も入っております)
花と龍〈下〉 (岩波現代文庫)
上下巻を読了した。わくわくするような面白さで、一ページたりとも退屈させられることがなかった。
私も炭鉱町で育ったので、特に石炭に関わる情景には懐かしい思いがこみ上げて来た。
戦後ではあるが、私たちの町にも似たような働く男たちがいて、そしておそらく、規模は小さいながらも、似たような「喧嘩」もあっただろう。
それにしても、当時の男たち、女たちは、なんと生き生きと時代と立ち向かっていたことか。
すべてを時間が流し去って、今は私の故郷にその面影は残っていない。それは作品の舞台である若松でもそうかもしれない。
この作品は、かつて争いながらも真っ黒になって働いた男たちの記念碑でもある。
作者は読者を愉しませる精神に富んでいた。そして、その才能も十分に持っていたのだ。一級品のロマンを堪能した。