シンクロナイズド・ロッカーズ
僕はBUMP OF CHICKENが大好きで、このCDに入ってる「ハイブリッドレインボウ」が聞きたいがためだけにこのCDを購入した。
そこに待ってたのはたくさんの出会いだった。
ELLEGARDEN
ストレイテナー
YO-KING
Mr.Children
The ピーズ
今も物凄く好きになって聞いてる人たち。
でも、一番大きな出会いはThe Pillows。
BUMP OF CHICKENの「ハイブリッドレインボウ」も大好きだけど、本舗の方の強さには及ばないかもしれない。
これは僕の意見だから、聞く人は自分で判断して欲しい。
ということで、このCDとともにPillowsのCDも買うことをオススメする。
この世の果て (扶桑社ミステリー)
変わっている。特に変なのは登場人物の動き全般とストーリィの進めかたと描出するシーンの選び方。ステレオタイプな登場人物が好きなわけでは決してないが、ここまで真意の読めない、というか何を考えているかわからない人物たちが、勝手に動いてストーリィを作り上げている印象が強いのも珍しい。はっきりいえば、「心に哀しみをたたえている」人物たちのどれもこれも食い足りなかったのだ。
一応主人公と思われるのが、ジョー(ジョーゼフ)・カーティスなのだが、コイツがどうもよくわからない。対比するように描かれるのが、インディアン出身でATFのリーアン・レッド・フェザー捜査官で、彼女は比較的解りやすいのだが、それとてもジョーと比較しての話。中でも一番解らないのが、リーアンの弟カルビンだろうか。他人など決して理解することができない、人間の行動に一貫性などない、というような視点から読むしかない。
キーワードは「自分の居場所」? カルトでしか自分の居場所を見つけられなかった人たちとアンダーカヴァーとすらいえない捜査で、自分本来の居場所を見つけつつあるリーアン。最終的にはジョーもここで居場所を見つけた? のなら、こんな危険な小説は無い。反社会的なカルトを扱っているにも関わらず、勧善懲悪的でなく、或る意味肯定すらするような雰囲気すらあってよくわからない。もちろん、カルトを肯定といっても、精神的な意味であって、先鋭化して反社会的行動をとるようになったカルトを弁護しているわけではない。人間が本来居るべきところ、という意味では、カルトも理解できるし、スピリチュアルなアプローチもわかる。だが、全体的に朧で、印象が薄い。アクションがいらないのだ。
ストーリィとしては、エンターテイメントへの拘りが、悪いほうに出た例だと思う。軍の暗躍などは、本当に必要だったのか。もう少し刈り込んで、密度高く構築したほうがよかったのではないか。作者が本当に描きたかったと思われる、スピリチュアルな物語を中心に、軍の動きなどは思いっきり省いて。後半になって、急に時制がつかみにくくなり、突然時間が戻るような錯覚に何度も襲われて、せっかく読書の推進力になっていたサスペンスの糸が突然断ち切られてしまったようでとても残念だった。
だが、人生を見つめる透徹した目は、この作者ならではのもので、洞察力に満ちた大人の鑑賞に堪ちるミステリではあると思う。こんなロードノヴェルを読んだのは実に久しぶり。翻訳が良ければもっとのれたかな。
この世の果てまでそばにいて
この歌は昭和の歌謡曲のような歌ですが、歌詞も曲も
全般的に美しい。少し前の歌のようですが、とても
歌いやすい歌でした。
今は世界の由紀さおりさんなので、これからも
活躍に期待できそうです。
この世の果てで恋を唄う少女 YU-NO
正直言って、PCの18禁ゲームからの移植、サターン版でR18指定のゲームということで、
最初ゲーム誌で情報を見たときは購入するつもりもまったくありませんでした。まだその手のゲームを
プレイしたことがなかったので、ある種の偏見を持っていたわけです。
その後、友達に薦められて貸してもらって何気なくプレイしてみたのですが、そのあまりの面白さに時間の
経つのも忘れるほど没頭してしまいました。ADVゲームは好きですが、これほどシステムの完成度が高い
ADVゲームは見たことがない。今でもありません。世界観、シナリオ、システムが完璧なまでに融合しているのです。
この世界観、シナリオだからこそのシステムというのでしょうか。このシステムで追随するゲームが出てきそうで
出てこない理由もそこにあるのではないかと。
とにかくYU-NOは面白いです。圧倒的なスケールのシナリオ、独創的なシステム、高度なゲーム性、絶対にオススメです。
この世の果ての家 (角川文庫)
兄さんと母さんを亡くしたボビーに恋したジョナソン。少年時代の初恋が70年代のオハイオ州の田舎町クリープランドを舞台に始まる。二人は兄弟みたいに仲良く毎日ジョナソンの家でジョナソンのおっかさんの手料理の夕食を食べ、ロックを聴き、マリファナを吸い、生きることの喜びをともにしながらセックスもする。孤児になりつつあるボビーを18歳でニューヨークに上京したジョナソンはずっと都会で生活をたてていくのに、ジョナソンのおっかさんはボビーをもう一人の息子としてともに暮らす。体がでかいだけで愚直なボビー、小柄で機敏で賢いジョナソン。ジョナソンの性癖が男にしか向かわないのをおっかさんは自分のせいにする。ものすごく長い物語なので30年くらいの時間の過ぎ方が長編小説になっているから、マイケルがボビーが孤児になるまでを書いた短編がなんとなくジョンアービングの初期の頃のガープの世界ふうでよかったのが、淡々とたディテールで読ませるグレーゾーンに入り込んでしまったような感じがする。ゲイの小説はたくさんあるけれど、15歳前後から始まる少年の物語はたとえば海辺のカフカにもあるように家族からの脱出、すなわち家出による世界への旅立ち、トルーマンカポーティの遠い声・遠い部屋だったかに通底するもし僕が男と女の子供でなかったら、どこにでも行けるのにという少年の冒険心にあふれていてみずみずしいのに。ここにはたとえばゲイ特有の病エイズが現れることによって急速に年老いてしまった長編小説になってしまっていることがすごく哀しいね。