楢山節考 [DVD]
深沢七郎の原作本を元に、今村昌平監督作品と木下惠介監督作品とが存在しています。但し、この2作品はかなり監督の狙い等が異なり心象が大きく異なりますので、ぜひ両作品を比べて見て頂きたいとも思いますし、またそれだけの価値もあろうかと思います。ここでは、敢えて片方しか見ないであろう方へのご参考になれば、、と思い、所感を記載してみました。●人間の本性・業・性(さが・せい)、過去の貧しい凄惨な農村の実態を本音で見つめたい場合&考えたい場合;⇒何と言っても今村昌平監督作品となります。当時の貧しすぎる奥深い農村は、余りにもリアルであり、緒形拳、坂本スミ子らの演技も光る!!但し、時に性(せい)を少々これでもか的に、あるいは少し動物・昆虫に置き換えコミカルに描き過ぎているのが悔やまれる。ところで、本の原作に感動して、親が子供と一緒に この今村昌平監督作品を見たりすると、大慌てするシーンが続出しますので要注意!これは大人が見る作品と割り切るほうが良いでしょう。逆に、子供に当り障りの無い作品として見せたい場合は、木下惠介監督となります。但し、先に本の原作を読ませておかないと、木下惠介監督はイマイチ深い理解が得られないような気もします。木下惠介監督は、はっきり言ってとてもマイルドなのです。歌舞伎的な流れの中で、背景画像も幻想的で、柔らかい御伽噺的な形、いつも根底に流れるエグイものには触れないでおこうとする優しさ(?)、、。最後に近いシーンで、同じ村のせがれが親を谷に落とした後、原本には無い、せがれも谷に落とされる一種の勧善懲悪的な付加内容には少々苦笑してしまいましたが、、。書いているうちに、今村昌平監督作品の良さの方が目立つ記載になってしまった感がありますが、ご参考にしてください。
楢山節考 (新潮文庫)
おりんを捨てて泣きながら楢山を下りる辰平の頭上から雪が降り始める。おりんはかねてから自分が山へ行くときは雪が降ると予言していた。辰平は村の掟を破って引き返し「おっかあ、雪が降ってきたよう」とおりんに伝える。おりんは黙ってうなずくばかりであった。
なぜ辰平は雪が降ってきたことを、村の掟を破ってまでわざわざおりんに伝えに行ったのか。そんなことをしなくても、雪が降ってきたことはおりんも先刻承知であろうのに。
読後の感動に押し潰されながらも、残留したそんな疑問に対し今では次のように考えている。
もう二度と会えないから。
もしもまた会えるのであれば「あの時おっかあが言っていたとおり雪が降ってきたね」と二人は確認し合うことができる。しかし二人にはもはやそのような場所が残されていない。
同じ雪を見ていても、それだけではコミュニケーションとは言えない。
同様に、同じ文字を見ていても、それだけではコミュニケーションとは言えない。
昨今のIT技術の発達をコミュニケーションという美辞で形容する風潮には疑問を覚える。電子メールはあくまでも手段に過ぎず、いくらやり取りしても会ったことにはならない。
むろん著者の深沢にそんな意図はなかったであろうが、コミュニケーションとは何かを考えさせてくれる一場面ではある。時代を超えて読み継がれる所以であろう。「心が洗われる」という表現が決して誇張ではない日本文学史上屈指の名作である。
生きているのはひまつぶし 深沢七郎未発表作品集
「言わなければよかったのに日記」もそうですが、著者の気負っていない生き方に共感が持てます。昨今流行のスローライフと言ったところでしょうか。肩の力が抜ける一冊です。
私の読書は、その本を読んで1フレーズでも、自分の人生に役立てば元が取れたと思って力を入れてしまいますが、著者の作品だけは例外ですね。特に役に立つことはないものの、読んで良かったというほんわかした気持ちになります。ですから、あまり気合いを入れて読まないのが吉。
深沢七郎外伝―淋しいって痛快なんだ
超然として常識の外に立った大人(たいじん)深澤七郎のよって来たるところを探す旅。
「おいらが気持がいいことは、ちょっと、まあ、淋しいようなときだ。
淋しい時はオカシクなくていいねえ、
銀座の千疋屋のパッション・シャーベットのような味がするんだ。
寂しいって痛快なんだ」(『流浪の手記』「おいらは淋しいんだ日記」)
楢山節考 [DVD]
頭でっかちの奴らばかりが、何でよりによってこの映画のレビュー書いてるのか、理解に苦しむな。
感涙のスペクタクル。もうそれだけ。この映画は。理屈はない。思い切り泣け。
泣かない奴は人間じゃない。
泣かない奴がいるから、戦争も人殺しも無くならないんだろうな。
ところで小子は、この映画、1983年(だったかな?)に新宿の松竹系封切館で行われたニュープリントによる初の同作リバイバル上映で見ました。贅をこらした極彩色映画なので、ニュープリントで見ていないと意味ありません、この映画は、ちなみに。