パンドラの匣 [DVD]
太宰治が、パンドラの匣(はこ)を開けてしまい混乱する世に、
匣の隅に残されていた希望という字が書かれたけし粒ほどの
小さな光る石を探し当て、陽の当たる場所で書いた小説で、
「玉音放送」を境に、新しい男に生まれ変わろうと決心した青年の、
“健康道場”と称する風変わりな結核療養所での日々が、
ユーモアに富んだ軽いタッチで描かれています。
この小説の最大の魅力は、主人公が密かに思いを寄せる看護婦
竹さんとマア坊の存在でしょう。
品性の光を放つ月のように神秘的な竹さんと太陽のように明るく
天真爛漫なマア坊。
口癖が「いやらしい」の竹さんに対して、マア坊は「意地わる」と、
どちらも言葉に色気が含まれていて、主人公でなくても男心を擽られます。
映画でも、療養所での患者(塾生)と看護婦(助手)の挨拶
「やっとるか」「やっとるぞ」「がんばれよ」「よし来た」や、「ア、ト、デ、ネ」
「うち、気がもめる」など小説に書かれてある言葉がそのまま使われていて、
竹さん役の川上未映子(芥川賞作家で映画初出演)や
マア坊役の仲里依紗(金歯を嵌めて好演)の口から発せられると、
日本語の響きの良さがストレートに伝わってきて、
ドキリとさせられてしまいました。
太宰治は本作で、『芭蕉がその晩年に「かるみ」というものを称えて、
それを「わび」「さび」「しおり」などのはるか上位に置いたとか、』と
文中に書いているように、すべてを失い、すべてを捨てた者の
平安の中にある「かるみ」を表現したのですが、
1947年に「看護婦の日記」のタイトルで最初に映画化された作品を
太宰治が観て、本当の意味での軽薄さ“かるみ”が作品にはないと
酷評したそうです。
その後60年以上の歳月を経て、冨永昌敬監督によって再映画化された本作は、
ジャズミュージシャン菊地成孔のヌーベルバーグ風の軽快な音楽が印象的な、
お洒落でポップな雰囲気のある“かるみ”を備えた作品に仕上がっていて、
天国の太宰治も納得の出来栄えになっているのではないでしょうか。
瞳バイブレーション (CCCD)
2003年12月から有線でかかっていて気になった曲です。
テンポのいい、明るい曲調がイイですね。ハスキーな歌声も特徴があって好きです。
詳しい情報はまだわかりませんが、CMなどで使われたら間違いなく売れる曲だと思いますよ。
頭の中と世界の結婚
アルバム発売はまだですが、新しいアルバムの数曲を聴きました。
明らかにこれまでの路線とは異なり、また、純粋な意味での音楽と
しての完成度が格段に上がっていると感じました。
単なる1リスナーの想像ですが、ようやく未映子ちゃんがやりたかった
音楽を具現できたのではないでしょうか。
歌も曲も肩の力が抜け、本当に自由で澄み切っています。
また、様々な音楽のジャンルの要素が含まれていて、いろいろな
カタチをもって聴く人の心の中に届いてきます。
未映子ちゃんのファンならずとも、今回のアルバムを聴かないことは
本当に勿体ないことだと思います。
いままでの未映子ちゃんのCDにいまひとつモドカシサを感じて
いたファンはこれでようやく救われたのではないでしょうか。
間違いなく最高傑作のアルバムです。
ヘヴン
著者のこれまでの独特な文体から離れて、いわゆる「普通」の小説の文体で書かれた作品。でも著者らしさは、いじめをする側の論理に集約されていた。これは決して著者がいじめを肯定している訳ではない(ある作家は批評家から、あなたは昔いじめをした側の人間だというのが文章から分かる、と指摘されて、その作家がその通りだと答えていたのを読んで以来、その作家のことは、作品は別として、好きになれない)。むしろ、いじめる側の人間の非道さや「バカの壁」的な物の考え方を明確に表現していて、その分、余計にリアルさを増しており、そうだから、人のことを同じ人間とは思っていないのだ、というのが嫌というほどよく分かった。
それと今回も『乳と卵』のように、ある手術が登場する。どうも精神と肉体は切り離せないものらしい。前回は女性、今回は男性なのだが・・・。だけれど、肉体を変えることで今回は心の支えとなるものを失ってしまう(そのあたりは仄めかされているだけだが)。そのあたりも丁寧に書かれていて、唯一ほっと安心できるものを得た喜びと失う喪失感があまりにも対照的で(逆に、そのために受ける苦痛が、この対照と並行して、なくなるはずでもある)、その辺のバランスも絶妙だった。
最後の最後まで読んでいて、胸が痛くて、辛くて、しんどいのだが、面白くもあり、読み終えるまでは寝る気になれなかった。コジマの猛烈な強さに圧倒され、人間の尊厳という言葉も思い浮かべながら読んだ。
ヘヴン (講談社文庫)
川上さんの作品をまとめて読むのは初めて。詩も書く人の小説としてはくせのない散文で読みやすい。斜視の中学生の「僕」が受ける激しいいじめ、「僕」に「仲間です」というメッセージを送ってくる、やはりいじめられっ子の同級生の女子「コジマ」との出会い、「コジマ」が語る「ヘヴン」。と、ある意味こんなに分かりやすくていいのかな、作者は本当にひりひりした心をもってこんな話を書いているのかなと、3分の2くらいまではちょっと眉に唾をつけつつ読んでいたのだけれど、偶然に「僕」が学校外で会ったいじめグループの「百瀬」が語る人間観(いじめには善悪のような意味はない)、いじめは選ばれた者がいつかヘヴンに辿りつくための試練だとする(いじめには意味がある)「コジマ」の辿る最期(?)には胸をえぐられる思いがした。
しかし、この展開は相当に作者の想像力による「作り物」という気もする。「いじめ」の陰湿さとはもっと違う、もっと静かで不気味なものではないかと。お話の上手さ、出来の良さはハイレベルだけれど、人間の怖さはもっと可視化できないところにあるのではという気持ちが残る。