ドッグヴィル スタンダード・エディション [DVD]
見終わって最初に来るのは、ラストをどう解釈するかという問い。カタルシスか。確かにそれはある。しかしそれだけでは思考を終わらせないだけの力がこの映画にはある。さらなる解釈を強いるのは、細部に蒔かれた数限りない伏線。
キッドマン演じるヒロイン(grace!)の、最初のトムと交わす会話から、総てのシーンでメタフォリカルに表現されるgraceという名を冠したヒロインの存在が象徴するもの。illustrationという言葉が持つ意味に思い至る。傲慢とその実例。あるいは権力とその実例。
そこに思い至ると、この映画の制作自体が、傲慢とその実例なのではないかいう気すらしてくる。観客を否応もなく巻き込み、そのことを通じて観客が立っている足下の地面をひっくり返すこと。それが、映画における芸術の定義だとすれば、まさに芸術作品と評価して良いと思う。
この映画評における賛否は、芸術を予定調和的な美しさに求めるか否かの違いだと思う。文句なく映画史上最高傑作のひとつ。
ドッグヴィル プレミアム・エディション [DVD]
映像としては舞台を3次元モデル化してフィルムに収めたものであり、余計な映像情報をカットしている分、メッセージが伝わり易くなっています。
また時折見られる真上から、凡そボードゲームに見たてる様な村のカット、同じ被写体を細かくアングルを変えて撮る部分も興味深いものがありました。
また演劇やミュージカルではモノローグで表現できる個人の内面の描写も、映画では通常違和感がある為使われませんが、
詳細に(ストーリーテラー?横文字だと分からないので)講談師w の語りで表現されており、一つの、特に古典の小説の読後感の様なものもありました。
映画は勿論含め、タイトルに挙げた様な芸術媒体の良いとこ取りの様な作品に仕上がっています。
扨て上記の様な映像表現は新鮮なものでそこに目が行きがちですが肝心なのはそこで描かれる物語であり、
内容を際立たせる為にあの様な撮り方をしたのかとも思えます。
この作品に登場する村は殆どのコミュニティー、即ち小さい規模で云えば会社、学校等も含めそれらをカリカチュアライズしたもの
だと思われます。村人達の行いも理不尽に見える部分もあるでしょうが、その罪が大きいか小さいかは別として現実に行われている
ものです。そして何より最後のシーンで溜飲が下がった方はもう一度見て頂きたいと思います。
村人は私達自身であり、この作品を観終えた後、そのメッセージを受け入れ自省するか否かで生き方も変わるのではないでしょうか?
グレースの様な心を持った人間(現実にはほぼ存在しないでしょうが)が必死に何かを訴えても
人間は自分と直面する事を嫌います。人が皆「許す心」を持てばミクロ的視野で見ると個人的な人付き合いから、マクロ的には民族・国家間
の戦争も無くなるのではないでしょうか? 併し「力」に依ってしか聞く耳を持たない人間を導けないと云う現実が
個々のエゴが存在する限り無くならない事を踏まえ、逆説的に「傲慢」と捉えられているのではと思います。
数千年間同じ事を繰り返している人間、そして自分の愚かさをまざまざと見せ付けられる作品でした。
ドッグヴィル コンプリートBOX [DVD]
~この映画は、今までにない舞台装置を使用している。舞台のような印象を持つセット、パントマイムのような俳優の演技、壁や天井を取り去ったオープンなセット、このセットには、隠し事が存在しない。そんな一見、映画が成り立ちそうな感じのしないセットで物語は進んで行く・・・物語が進むにつれ、隠し事があるのは、人間の心の中に存在することに気付かされ~~る、人間ってなんて酷い生き物なのかに気付かされる・・・
ただ、舞台のような場所をカメラで撮影したのではなく、かなりのデジタル技術が使われている。
大変、面白い作品です。~
マンダレイ デラックス版 [DVD]
続編ということで、その衝撃に慣れたせいでしょうか。
舞台装置の斬新さや、揺れ動くカメラワーク、クローズアップの多用、
斬新な照明や台詞回し、など映像技巧的な面では、この2作目は、仕掛けと
いう点では、1作目と比べて瞠目すべきものあまりなかったと思います。
逆に、主役交代、ニコール・キッドマンに替えて、ブライス・ダラス・ハワード
を起用したのは、迫力不足。白人女性を黒人が陵辱するという
象徴的かつショッキングなシーンで、近代米国における、さまざまな
社会問題に切り込んだ、その体当たりな演出は賞賛できますが、
いかんせん、主役の存在がおとなしく地味で、ちょっと迫力不足。
シリーズ二作目ということで、中継ぎ的役割のせいなのか、どうなのか
わかりませんけど、ちょっと物足りません。
とはいえ、このシリーズは、それでも他者にマネできない、圧倒的な
エネルギーと哲学、難解さ、斬新さ、ある意味グロテスクさを
みせつけるという意味では、アメリカ三部作ということですので、三部作目
に、トリアーの真骨頂を期待したいものです。
ドッグヴィルの告白 [DVD]
ドッグヴィルの本編のレビューに、この映画は「世間学」でいう「世間」の解体を描いたものだと書いた。ヨーロッパではキリスト教が「世間」を解体して「個人」からなる「社会」を造り出したが、この時に「個人」を生み出したのは「告解(コンフェッション)」だと言う。そしてこのメイキング・フィルムである。通常は関係者がインタビューを受けていろいろ語るが、このフィルムではそれぞれの告白(コンフェッション)の形を取っている。まるで監督も俳優も、「個人」として独立するために苦しんでいるかのようだ。つまりここでは映画の中と、製作する人間たちの中の両方で、二重に「世間」の解体が行われているのだ。したがって製作者の世界では、ほかの映画の製作過程では家族のような互いの絆ができていくのとは逆に、各人が孤立していく。映画を作っているのが苦痛に見えるメイキング・フィルムを見るのは、珍しい。映画そのものだけでなく、その製作過程も実験的だったのだ。ただしそのようなメイキング・フィルムを見るのは、生身の人間の話であるだけに、決して楽しいものではない。