Jekyll & Hyde: The Musical [DVD] [Import]
このビデオのすばらしいところはなんといっても「ビデオ」だからこそ見られる視点にあふれているところだ。劇場では最前列に座っても、これほどまでに役者の表情を至近距離で見ることはまず不可能。劇場では定点でしか見られないものが、このビデオでは最前列、二階席、そして舞台の上から(!)までもよく練られたカメラワークで楽しませてくれる。これほどまでにカメラが動き回り、ズームを駆使してまるで映画のように見せてくれるミュージカルビデオであるとは思わなかった。絶対に買って損はないと思う。
ジキル博士とハイド氏 (まんがで読破)
一般的に“表と裏”があると良い、ないと悪いという世間のイメージがあると思います。実際わたしもそのイメージを持っていて、自分のそういう部分に気づいて自己嫌悪することがあったりと、なるべく“表と裏”をなくそうと意識していました。そのような考えの中この本を読みました。
ジーキル博士は自分の中に異なる性格(ここでは善と悪)が同居しているのを認め、そのことが許せません。そこでジーキル博士は薬により悪の人格であるハイドと言うキャラクターになることができるようになります。つまり性格一つずつを特化させることで全体のパフォーマンスを向上させようとするわけです。しかしジーキル博士はそれまでの固有の心のバランスが崩れていき、最後にはハイドという裏の性格に飲み込まれてしまいます。たとえ裏となる性格でも心のバランスのためには必要なのかもしれません。
ジーキル博士とハイド氏 (光文社古典新訳文庫)
弁護士のアタスン氏は友人で高名な博士のジーキル氏から遺言状を預かった。しかしそこには
ある男に氏の死後に全財産を譲るとあり、アストン氏自身はその男を知らない。男の名はハイド。
なにか好ましくない背景があるとにらんだアタスン氏は、独自の調査を開始。ハイド氏の素性を
明かそうとする彼だったが、彼を待ち受けていたのは、恐ろしい真相だった…。
言わずと知れたスティーブンスンの代表作のひとつ。むしろ二重人格だとか性格の二面性について
「ジーキルとハイドだ」と表現できても、この原作そのものを読んだことはないという人も多いんじゃ
ないだろうか。そんな『ジーキル博士とハイド氏』の光文社古典新約文庫だ。相変わらずこのレーベ
ルは訳が読みやすい。
というわけで、よほどのことがない限りこの結末を予想できない人はいないだろう。「え、ええええハ
イド氏はあの人だったの!?」なんてことは、まずない。その点で、出版された約150年前、イギリス
はヴィクトリア朝時代の読者に比べれば、インパクトは劣るだろう。
ただ、なぜこういうのが当時受けたのかを考えるのも面白い。なにかと抑圧を強かった時代だと考え
ると、抑圧されない自己=ハイド氏がいつ自分の理性の殻を食い破って出てくるかわからないという
恐怖が、観客に感染したのかもしれない。いずれにしろ、分裂した自己というモチーフの先鞭をつけた
という意味では、エポックメイキングな作品であることに変わりはない。
ただ、不思議な点もあって、ジーキル氏が初めてハイド氏をみたときに自分で作っておきながらハイド
氏がといっていて、ハイドという名前はあんたが付けたんじゃないのかという話だったり、慌てて彼が
同じ薬をもう一度飲むのだが、なんでもう一回飲むと元に戻れると踏んだのか、むしろ悪化する可能性
もあるんじゃないかと考えたり。そういうツッコミどころも含めて楽しむもの、ではないかもしれないが…。
Dr. Jekyll and Mr. Hyde (Bantam Classics)
クラシックであるにも関わらず表現豊かで
ありながら静寂を保つ雰囲気がとても緊迫感
をだしていて読みながら常にドキドキする
感じがあります。自分の中の善と悪をわける
ことに成功してしまったジキル博士は欲望に
負け己の許す限りの罪をハイド氏として犯して
しまう。単に多重人格ではなく容姿も全く
変わってしまう変身ぶりがこの物語の少し
ワクワクするところです。場面ではなく手紙
で自分の死を我々読者に伝えて静かに結末を
むかえるのも綺麗にしめくくられていて私は
気に入りました。
ジキル&ハイド
社会に対する責任と生の対する憧れといった人間の心理的二面性を描いた古典です。生の対する憧れが見直され、テイク・イッツ・イージーの姿勢が受容されるようになった現代でも、心理的二面性は存在していて、考察していかなければならない大切なテーマだと思います。ジョンマルコビッチのすばらしい演技が、人の心の二面性は普遍であると警告を鳴らしているようです。ジュリア・ロバーツが演じる、父親から受けた虐待から体にも心にも傷を残し、殺されそうになっても相手に共感を示し相手の為に涙を流すことのできる優しいメイドに感動しました。