不可能性の時代 (岩波新書)
概して面白く読めたが その「面白さ」はあくまで著者が本書で語る「物語」の面白さであり それが本当なのかどうかについては 留保が必要ではないかと感じた。
例えば著者は「酒鬼薔薇聖斗事件」「地下鉄サリン事件」などに 時代を読み込もうとしている。
著者が読み込んだ「物語」は読んでいて説得力には満ちている。しかし一方 それらの事件が 果たして時代を代表するような出来事であったかどうかに関しては 同時代に生きた僕としては説得されなかった。
事件にまとわりつく「記号」を分析する知性には感心しても その記号は そもそも特殊ではないかという印象が最後まで残った。
ましてや松本清張のサスペンス小説「砂の器」を取り上げ 主人公の本浦を 「本裏」=「裏日本」と読み込んでしまう著者の「深読み」を考えてしまうと それ以外の著者の読み込みも もしかしたら同レベルに「面白く」かつ「深読み」ではないかと感じてしまうのだ。
その上でオタクを巡って 現代を読み込む手法に関しては 「そもそもオタクがこの時代を切りとる正しい切り口なのか」という前提を押えるという手続きに欠けている気がした。
現代の日本社会を分析するにあたり オタクという「特殊な記号」が どれほど有効なのかが僕には説得的ではなかった。
「オタク文化を読み解くことの面白さ」は本書でも十分に感じさせられるが それが 現代の日本のすべてとは思えない。今の日本を高齢化社会だと考えると その高齢者たちが オタクだとも思えず 従い 日本のある一定以上の人たちを外した日本論の有効性が ぴんとこないのだ。その意味でも 前記の手続きがほしいと思った。
著者の博覧強記と 語り部としての才気はすさまじい。それがある意味で裏目に出ている気もした次第だ。繰り返すが 大変面白い本ではあるのだ。
無知の涙 (河出文庫―BUNGEI Collection)
ノートの初めは余白の多い詩が多めだ。読み進むにつれ当時の時代の流れであった社会主義やマルクスに傾倒していき日記と論文めいたものでノートが埋め尽くされていく。その様はまさに『アルジャーノンに花束を』。 彼が再三繰り返す『資本主義だと殺人は増え続ける』という言い分はいかにもな感じがする。殺人犯が学生運動を見下し加減なのも辛く、犯罪者特有の歪んだ顕示欲も感じられる。 しかし、一人悶々と抱え続けていた思いが書物によって刺激され、やっと昇華した場所が刑務所という皮肉に考えさせられた。
まなざしの地獄
大澤真幸氏の分かりやすい解説と併せ、社会学的思考の醍醐味(凄み)を感じさせる一書。1965年と1973年に発表された二論考が収められているが、いずれも内容は古さを感じさせない。なお、本書で示された認識枠組みを今日的状況に当てはめたものとして、例えば見田氏の朝日新聞2008年12月31日付論説「リアリティーに飢える人々」がある。(こちらもまた素晴らしい考察である。)
両氏の考察を自分なりにまとめれば、本書に登場するN・N(集団就職者)も、昨年6月の秋葉原殺傷事件のT・K(派遣労働者)も、「家郷から、そして都市から、二重にしめ出された人間として、境界人というよりはむしろ、二つの社会の裂け目に生きることを強いられ」た(32頁)のであるが(期せずして二人とも青森県出身)、二人の違いは抽象化して云えば、前者がいわば世間という「まなざしの地獄」に抗し得なかったのに対し、後者は「まなざしの不在」に耐えられなかったという点にある。また、N・Nの時代(高度成長期)にあっては、失われた家郷は都市においていわば擬似的に縮小再生産(核家族)され得たのに対し、今日(未来不在の時代)にあってはそれすらも解体の方向にあり、例えば「ネット心中」に代表されるようないわば擬似ネット家族のようなものがヴァーチャルに浮遊しているに過ぎない。
われわれは如何なる時代を生きているのか、またこの荒涼たる時代を如何に生きねばならないのか、まずは確認することから始めたい。
裁かれた命 死刑囚から届いた手紙
古い事件にもかかわらず,執念深く取材されているし,展開もドラマチックだし,面白く読んだ。最後までパズルの「ピース」は足らないのだが,それでも少しずつピースがはまっていき,全体像が見えてくるストーリー展開に引き込まれる。
発端は元検事へのインタビューである。元死刑囚から頻繁に届いていた手紙。その内容に元検事は驚き,刑が執行された後もそのことが心から離れない。関与した弁護士や,証言に立った知人,地域の住民,親戚など,幅広く取材を重ねながらストーリーは続いていく。
古い事件でもあり,取材はトントン拍子に進むわけではない。なかでも,元検事の人が,現在の司法当局の対応に憤る場面はシュールですらある。元検事は司法当局の情報公開の壁に,この事件の情報公開を求めて初めて気づくのである。
被害者への記述が少ないが,あとがきにある通り,本書が狙っていることからはずれるのだろう。「事実」は丹念に掘り起こされているが,それでも本書はひとつの「物語り」であり,被害者からの別の見方もありうることは認識しておきたい(それでも,卓越した「物語り」であり,ぜひ読んでほしい)。
とはいえ,そのまま風化してもおかしくない年月がたっているのに,こうして新しい書物が生み出されることで,記録や記憶が残されていく,ということも不思議な感覚だ。事件の数だけ多くの事実が残されているのだが,それを掘り起こし物語る人がいなければ,そうした事実(物語り)は消えていくのだな,とも思った。
裸の十九才 [DVD]
1970年公開作品。19才で殺人を犯して死刑囚となり、刑務所の中で独学してたくさんの書物を残した永山則夫の実話をモデルにした映画です。まったく罪のない人たちを殺めることに同情の余地はありませんが、この殺人犯の生きてきた道は見ていてとてもつらく、犯罪にまで追い込まれたことが彼の人間らしさなのではないかとも思えて来ます。
連続殺人犯を真正面から取り上げて、生い立ちから捕まるまでを描いたという意味では、ついこの間見た「復讐するは我にあり」と比較するのが普通かもしれないけど、私の頭に浮かんだのは秋葉原で起こった大量殺傷事件のことでした。
この映画では、極貧の家庭から中卒で集団就職のために上京した青年が、居場所を見つけられず、たまたま盗みに入った外国人住居で手に入れた拳銃で、次々に行きずりの人たちを殺していきます。その貧しさや都会での疎外感はこの時代特有のものに見えるかもしれないけど、私の目には秋葉原の男の子たちとそっくりに見えます。…むしろ、直接の人間関係が昔よりもうすく、ネット上の文字としてしか存在できない今の子たちの孤独は深いようにも思えます。
なんとなくだけど…本当に愛されたり祝福されたりしたことが皆無な人の感情は、この映画の主人公のように人間的に揺れたりしないと思う。末っ子として可愛がられたり、マラソンで1位になったりした過去の成功体験があるから、もっと与えられるべきだっていう気持ちで焦がれるんじゃないかな?
この映画をみてると、自分がこの映画の中のどこかにいるように、こわいくらい身近にも思えます。ゴーゴークラブの片隅じゃなくてTVのこっち側にいるのは、ほんの偶然。先週の今頃はあっち側にいたかもしれない。