幸田文しつけ帖
幸田露伴の娘「幸田文」著、その娘「青木玉」編。
慶応3年生まれの父:幸田露伴のその難解なしつけ。
それを見方によってはコミカルに記した幸田文の文章は軽快である。
薪割りから掃除、野菜の切り方等などさまざまな「しつけ」が続く。
今では使われない単語も多く出てくるが、明治生まれとは思えないテンポのいい文章。
読んでよかったと思える1冊。
記憶の中の幸田一族 青木玉対談集 (講談社文庫)
青木玉の九つの対談集になっています。
内容は、幸田一族の話、幸田家の生活、躾の話等で、すべて幸田露伴、幸田文、青木玉の三代に渡る著作の背景にかかわる話です。
この本を読んでいると、幸田一族の凄さが解りますし、そこにおける露伴の位置づけなどが解り、興味深いものがあります。
それと同時に、そうした家族環境の中での娘文、孫娘玉と露伴の関係も、かなり見えてきます。
それにつけても、幸田文と言う人の「強さ」を感じずにはいられません。
厳しい露伴の教え、弱い夫との離別、病弱の玉。
押し並べて、すべての面倒みが文のところにあったようです。
病気を押して、露伴のわがままを聞いて、伊豆まで伊勢海老を求めに行くところなど、「強さ」以上のものを感じます。
それがあるからこそ、44歳になって著述を始め、しかもあれだけの作品を残すことが出来たのでしょう。
この本を読んで、改めて幸田文の著作をすべて読みなおしたくなりました。
きっと、最初読んだ時とは違って、深いところまで読み込めるような気がします。
小石川の家 (講談社文庫)
青木玉氏は幸田文氏の娘です。ということは幸田露伴氏の孫にあたる。
昭和十三年五月、幸田姓にもどった母・文が、九歳になった著者・玉をつれて小石川の幸田露伴の家に転居してから、祖父・露伴が没した昭和二十二年、そして母・文が亡くなる平成二年までのあいだの幸田家の生活、想い出を随筆に著している。
祖父への尊敬と畏怖、それを九歳のころの青木玉氏は母・文さんの露伴氏に対する献身ぶりから感じ取る。日常の全てにおいて家族に対し教養と高尚さをもって生きることを科し、安直な卑俗性を憎んだ露伴は、幼い孫にさえ思慮深くきちんといきることを求める。母・文もそのような露伴の意に沿って娘を厳しく躾ける。このような躾のあり方には、賛否両論あると思います。
しかし、子に対する厳しい躾はその裏腹のこととして躾ける側の責任と覚悟があります。つまり、子を厳しく躾けるからには自分がそれを出来ていなければならない。そして、躾けた当事者として、子の行く末に責任をとるということ。この本に書かれた露伴の振るまいは現代のおおかたの基準に照らして、ものすごく我が儘です。しかし、それをするからにはその責めを一身に引き受け、家族の生活、行く末までも責任をとるという強い覚悟があるはず。
「あなたにはあなたの人生があるから・・・」などという逃げをうたない姿勢、それを感じるからこそ娘も孫も従う。ここに現代に生きる私たちが忘れかけている生き方があります。
その忘れかけている生き方とは、たとえば「長幼の序」であり「凛と背筋を伸ばした生き方」です。この本を読み一昔前の凛とした生き方に触れるにつれ、私たちが失いつつある「気高さ」という価値観が呼び覚まされます。
読み終えてなんと清々しくなることか。
本の装丁も良いです。安野光雅氏の水彩画がすばらしい。
着物あとさき (新潮文庫)
母幸田文がのこした「とりあへず」と付された箱から出てきたのは、白生地でした。その残された白生地をどう「始末」するかと専門家に相談するところから、このエッセイは始まります。
そこから、作者の「着物」に纏わる業種を訪ねる1年余りがスタートしました。
この本を読んでいると、「着物」と言うものがいかに「始末のいい」ものかがよく解ります。今風に言えば、「エコ」と言うことでしょう。
その「始末」の一つに「洗い張り」が出てきます。
その道具として、「張り板」とか「伸子(しんし)」があります。子供の頃、母が「張り板」を使って「洗い張り」をしていた記憶があります。又、同級生に「染物屋」の子供もいました。
「着物」は、こうした「洗い張り」や「染め替え」をしたり、「仕立て直し」をして、親・子・孫と引き継がれていました。(それは、丁度、文・玉・奈緒と文筆活動と共に引き継がれた着物姿のようでもあります。)
今は、普段着として着る人も少なくなり、「晴れ着」としてしか用途がなくなってきて、こうしたこともなくなってしまったようです。
そのために、「着物」に携わる業種の人たちも少なくなり大変なようです。逆に言えば、そうしたことをしてくれる人を探すのも大変になったと言うことです。
時代の流れの速さを感じるとともに、「日本的なもの」が少なくなり、こうした伝統が失われてゆくことは、非常に残念に思います。
それだけに、この本に書かれたことどもは、こうした「着物のあとさき」の纏まった記述として、エッセイとしての見事さ以上の価値があると思います。