草の花 (新潮文庫)
福永武彦は、爆発的に読まれた作家ではない。全盛期の昭和40年代も、ひっそりと愛されるタイプの作品を、すこしづつ世に送って来た。そして、今は、書店の陳列棚の一等地から後退して、必死で捜さないとないかもしれない、という状況になっている。
でも、それでいい。できれば誰にも読んでほしくない。僕がもっとも好きな日本の作家なのだから。読んでもらうひとがひとり増えると、彼の小説の純粋さが、ひとつ薄れるようでいやな気がする。だから、ほんとうは福永の作品のことを、誰にも紹介したくはないくらいだ。
「草の花」は、後年の大作「死の島 (新潮文庫 草 115 H) (新潮文庫 草 115H)」などの複雑で緻密な小説構造を、もっとも素朴な原形としてみることができる小品だと思う。
小品といっても、びっしりと文字が詰まった彼の作品は、それだけで、活字中毒でない人々を辟易(へきえき)させるのに十分だ。辟易した人は、どうか彼の読者から脱落してほしい。引き止めはしない。のぞむところだ。ファンが減れば減るほど、自分だけが秘かに愛することができるから。
あの時代に存在した、きまじめな恋愛が描かれているので、きっと現代を生きた我々からいうと「何もはじまらないうちに終わっている」と思うだろう。
現代が生み出すことができない、過去の時代に描かれた作品。思いを寄せた相手への刻むような心のきしみ、最善を尽くしたけれども、報われることがなかった思い。そんなぎりぎりの恋愛感情を、青春時代の俺も、持っていたはずなんだ!と思い起こしてくれる作品なのである。
現代語訳 日本書紀 (河出文庫)
いまさらながら、思いついたことがある。気がついた、というべきか、気のせいか、というべきか……。
この時、スサノヲノ尊は、年すでに長じて、八握もあるほどの長い鬚が生えていた。それなのに天の下なる国を治めることをしないで、なお足ずりをして大声に泣き喚き、頬をふくらませて怒り、かつ怨んだ。そこでイザナギノ尊が尋ねるには、/「お前はどうして、いつもそんなに泣いているのか?」/こう言ったところ、答えて、/「私は母君のおいでになる根国にお供したいと思い、それで泣いているのです。」
〈八握もあるほどの長い鬚〉を生やした、いい年したおっさんが、〈足ずりをして大声に泣き喚き、頬をふくらませて怒り、かつ怨んだ〉。
大袈裟、にもほどがある。いや、大袈裟、というより、ほとんどコントだ。めたくたである。そうして、なぜ、泣いているのかといえば、お母さんのいる、あの世に行きたいのだ、という。スサノヲノ尊は、お母さんが、大好きであるらしい。また彼は一面、「その性質が乱暴で、壊したり傷つけたりすることを好んだ」、という。ところでスサノヲノ尊には、お姉さんもいる。アマテラスオホミカミだ。「この御子は、その身体が光り輝いていて、天地四方にまで光が及んだ」、とある。
乱暴で母に甘える弟に、〈天地四方にまで光〉を放つ姉。――この取り合わせって、……なんだか、太宰「斜陽」の直治とかず子みたいじゃないか? なんて思いついた、というべきか、気がついた、というべきか、気のせいか、というべきか……母の死を追うように命を絶った直治と、あの世の母を慕うスサノヲノ尊との相似なんか、……気のせいか。
大袈裟、を感じさせる表現が、実は、リアルへと肉迫していく仕掛けとして機能している点なども、太宰の文章に通じるものがあるのではないか? なんて、思いついた、というべきか……気のせいか。
話が飛ぶが、私が一番好きなのは、スクナビコナノ命だ。
その時、海上から不意に人の声が聞えてきた。オホアナムチノ神は驚いて探し求めたが、海上に舟もなく、人の姿もなかった。しかししばらくするうちに、眼にもとまらぬほどの小さな男が、ががいもの実を二つに割ってその莢を舟の代りにし、みそさざいの羽を着物の代りとして、波のまにまに浮びながら、岸に寄って来た。
この続きが、また、私は好きなのだが、ここでは省略する。はじめて酒を作ったのは、スクナビコナノ命である、という。あるいは、それは芋焼酎であったかもしれない。
現代語訳 古事記 (河出文庫)
日本最古の典籍から、どうやって日本が誕生したのか、建国の由来、今や当たり前の土地の名前、そして、神々の誕生の由来などが知れて非常に奥深い。 現代人が忘れてはならない大事なテーマが間違いなくここにあると感じました。
忘却の河 (新潮文庫)
福永武彦。偉大な作家である。
彼の作品をいろんな人に読んでもらいたい、
知ってもらいたいと、切に思う。
だが、彼の作品の数々が絶版の憂目にあっている。
現状は厳しい。
そんな中での「忘却の河」復刊。
名作は手元に置いておきたいものである。
本屋に並んでいて欲しいものである。
「死の島」の復刊も願う。