雲の都 第四部 幸福の森
これはなんでも「自伝的小説」らしいが、自伝にしては小説的過ぎて?全部が嘘かとも疑われるし、小説にしては文章が緩すぎてまるで素人のようで戸惑う。自伝と小説の2つの要素を恣意的にアマルガムにしているために作品に芯が無く、一個の読み物としての主体性が希薄であると感じられる。
同じ「自伝的小説」でもトーマス・マンの「ブッデンブローク家の人々」ではこういう不安や不安定はさらさら感じないから、おそらくその原因は、著者の枠組みの設定と文体・文章の吟味が甘いのだろう。後者については渡辺淳一や塩野七生と共通するものがあるが、この2人はあれほど酷い文章を書いても構造自体はきっちりしている。
そのことは、著者の文章と著者が本書で引用している死刑囚の迫真の文を比べてみるとよく分かる。著者は自分の人世に決定的な影響を受けたこの出会いから多くのものを学んだと告白しているが、文体の深さと重さと鋭さについてはまるで無関心だったらしい。
しかし先祖の韓国や韓国人とのつながりなどや、妻とは別の女性との間に出来た息子の自殺やゲーテの故地への訪問記など、文想が乗って来ると精気がみなぎる。出来不出来の差が激しいバレンボイムの演奏のようだ。
われもまた2012年夏の海の点景となり終せぬ 蝶人
死刑囚の記録 (中公新書 (565))
私は目下、死刑や冤罪に関する文献を読み漁っているが、その中で、古典というべきこの本を見落としていたことに気づき、遅まきながら最近読んだ。
本書を読む前に光市母子殺害事件関連の本、松本サリン事件関連の本、志布志事件関連の本などをたくさん読んだが、河野義行さんに対する警察のメチャクチャな虐待ぶりや、志布志事件での警察による完全な「でっちあげ」などの衝撃的事実を知って、今の日本の制度(被疑者の取り調べ過程が可視化されておらず、弁護士の立会いも認められていない)の下では虚偽の自白がいかに作られやすいかを骨身にしみて感じると同時に、光市事件に関してだけは、あの元少年が、途中から供述を翻したことについて、「不自然」との疑いをぬぐいきれず、判断を留保せざるをえない気持ちがして、正直なところ、戸惑っている。
今枝仁弁護士によると、光市事件の被告人は、捜査段階で検察官から「君がこのような弁解を続けると、死刑を求刑しなければならなくなる。君を死刑にしたくないから、本当のことを言って欲しい」と言われ(『なぜ僕は「悪魔」と呼ばれた少年を助けようとしたのか』195ページ)、その誘導に乗って、一審、二審では検察官の描いたままの犯罪事実の図式を基本的に争わなかったが、上告されて死刑の可能性が濃厚になってきた段階で「だまされた」と思い、「本当はこうだった」と弁護士に告白しはじめた、とのことだ。
被疑者・被告人がこういう「取引」で警察や検察にだまされて、本当の事実とは違うことを認めてしまったという例は、過去にたくさんあるから、私は、あの元少年もその一例だという可能性を否定できないと思う。その意味で、マスコミがセンセーショナルに煽り立て、世論もほとんどがそっちになびいてしまった(そして差し戻し控訴審の判決もそちら側になびいた)「『母胎回帰』『ドラえもん』『復活の儀式』『償いのチョウチョ結び』などは、死刑が怖くなってから創作した荒唐無稽な言い訳」という、斬って捨てるような断定に、そう簡単に与してはいけないと思う。
が、精神科医である加賀乙彦のこの『死刑囚の記録』によると、長期の拘禁状態の中で精神に異常をきたし、「真犯人は別にいる」とか「自分も当の犯罪に加担はしたが、共犯のだれそれのほうが主犯で、自分に下された判決は事実誤認にもとづいている」というような主張を繰り返すようになり、それが当初は意図的な創作であっても、しだいに本人にとっても確信へと転化してしまう場合がかなり存在し、本当の冤罪や本当の事実誤認とのあいだの境界はきわめて微妙だという。
まことにむずかしい問題だ。
何はともあれ「取り調べの可視化」は絶対に必要で、日本はこの点で徹底的に遅れているということだけは、はっきり言っておこう。
きのこ文学名作選
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■■あめの日■■八木重吉■■■
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■■しろい■きのこ■■■■■■■■■
■■きいろい■きのこ■■■■■■■
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■■あめの日■■■■■■■■■■■■
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■■しづかな日■■■■■■■■■■■
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☆「なに言ってんだ?」と思われたでしょうが、
本文そのまんまなんですよ、コレで…
しかも、『キノコのアイディア 長谷川龍生』は
コレよりさらに上です…
内容どーこーより、出版物としての限界に挑戦した
チャレンジ精神が素晴らしいですね(笑)!
宣告 (上巻) (新潮文庫)
まず初めに、この本を読んでも私の死刑存続への賛同は揺るがなかったことを書きたい。
ただ、それへの答えを見つけるために読む本でもないし、作者も廃絶を流布する手段として著したものではないことも明白な作品だ。
なぜこんなに一気に読了させるほどこの作品は魅力的なのだろうか・・・。
もちろん、加賀氏の筆致・構成などなど作家としての素晴らしい力量によるところもあるし、
精神科医としての専門家的視点で描かれた迫力もある。
だが、それだけだろうか。
多分に、犯した罪・その被害者の唯一の仕返しともいえる死刑求刑とその執行までの恐怖、
その未知の世界を読み手が追体験させられるからだと思う。
人間とはこんなにもか弱く脆く浅はかなのかと痛感する。
そして、だからこそ人は愛おしい。
不幸な国の幸福論 (集英社新書 522C)
医学者であり作家でもある加賀乙彦さんが、閉塞感の漂う現代日本社会の因って来たる所以と幸せに生きるための考え方を平易な話し言葉で述べている。80歳を超えた著者の多彩で充実した人生経験―拘置所の医務技官として死刑囚との交流、心理学研究のためのフランス留学、作家として文学書や宗教・哲学書の精読―が随所に反映されており、読みながら老碩学の謦咳に接している思いがした。
本書の前半部は現代日本社会論である。第1章「幸福を阻む考え方・生き方」で、人目を気にして自分の頭で考え抜くことのできない日本人の国民性に触れ、第2章「『不幸増幅装置』ニッポンをつくったもの」では、戦後日本の経済最優先の中で、流され続ける日本人自らが不幸な国を作ってきたとする。後半部は幸福論になっている。第3章「幸福は『しなやか』な生に宿る」で幸不幸は個人の考え方によるところが大きく、「しなやか」な精神を保ち希望を持つとともに、物質的豊かさの追求から幸福を生み・担う生き方への転換を説く。また第4章「幸せに生きるための『老い』と『死』」では、豊かな老いの過ごし方について多くの具体例を引いて述べ、死が生を支えており、死を思うことはよく生きることという著者の死生観が披瀝される。
前半の「不幸な国」の病理解剖は類書に見ることもあるが、後半の「幸福論」は著者ならではのユニークなもので説得力に富む。ことに最終章の「老い」と「死」の考察は、前期高齢者である評者のこれからの生き方にとって良きアドバイスとなった。また著者は69歳の時に始め今も文芸誌に連載を続けている長編小説「雲の都」を書きながら死ぬことを望んでおり、75歳で韓国語の会話に80歳で能とオペラの台本に初挑戦したという。ご自身の豊かで充実した老後の生き方にも感嘆し励まされた。