高丘親王航海記 (文春文庫)
澁澤氏が先に執筆したエッセイ中の思索を、薬子の乱を主因として天竺を目指す事になった高丘親王一行の幻想的航海記に託して描いた集大成的物語。最低限の史実を除き、リアリズムは排し、奇想と非論理(無意味)から生じる笑いを主題としているようである。
一番感じるのは、「私のプリニウス」、「胡桃の中の世界」の影響である。薬子の"卵"生願望、高丘親王の重層"円"的思考法、人語を操る動物を初めとする珍奇な動植物、アンチボデスの概念(プリニウスは裏側の人間は何故落ちないのか疑問を呈している)、球・円形オブジェへの拘り、種々の蛮族、「鳥=女神」論、全てエッセイ中で語られている。また、一行中の円覚を「日本人離れしたエンサイクロペディックな学識」を持つと評しているが、これは作者の自評だろう。大蟻食いのエピソードが示す、真と偽に代表される弁証法的二元論も澁澤ファンには御馴染み。この物語の時制を整理すると次のようだろう。
(1) 薬子、空海が登場する、高丘親王の幼年・青年時代(過去)
(2) 旅行中の現在
(3) (2)の中で見る夢の世界
(4) マルコ・ポーロ等の名が出る未来
(3)の中に(1)が現われ、(1)で(2)を予見し、(2)で(4)を予言すると言う、まさに玉葱の皮状態の循環同心円構造。秋丸・春丸、ジュゴンの転生にも輪廻思想が現われている。鏡の写像で生死を気にする姿は、"洞窟の影"の暗喩か。本作全体が高丘親王の"影(夢)"のようである。結末もファンタジックで集大成(遺作)に相応しい内容と言えよう。
悪徳の栄え〈上〉 (河出文庫)
かつて澁澤龍彦の著書を熱読した時期があった。そのなかでも「悪徳の栄え」はエポック・メーキングな作品だった。たしかにドストエフスキーやニーチェにも密かな影響をあたえた形跡が歴然としていた。延々と続く哲学問答と性的場面がめまいに似た感覚をもたらし、たぐいまれな書物の面白さの世界にのめりこませてくれた。登場人物たちの性格付けは少々機械的な感もあるが、ヒロイン、ジュリエットには十分悪の女王の魅惑がそなわっている。
興味深いのは、アペニンの人食い鬼ミンスキーのエピソードで、澁澤がもっとも好きな部分と言っているようなダークなファンタジーである。サン・フォンの悪の支配者哲学とともに私にとっても非常に好きなページである。
万有引力VOL.2 1983-1993
このCDには演劇実験室・万有引力の旗揚げ公演「シナの皇帝」から93年公演「大疫病流行期」までの曲が数曲づつ収録されています。
比較的、雑多な印象のあった前作vol.1に比べ、堅実な作りの作品に感じられる。
シーザー自身の歌唱もある一曲目の「引力零年」~シナ大滅亡をはじめ、名作「身毒丸」で素晴らしいソプラノを聞かせた塩原昌代さんの歌唱や、天井桟敷からそのまま移籍した俳優陣など、
83年から93年という時期は劇団が非常に安定していた時期なのだろうと推測され、全編にわたり非常に高いクオリティを保っています。
そして新生asian crackの活動第一作であった前回と違いノウハウが掴めたためなのかはわからないが、ブックレットの作りなども前作に比べ向上しているような気もします。
また、元来後追いのファンにとって空白期であったこの時期の楽曲のCD音源化というのは、もはや値千金としか言えないでしょう。
少女革命ウテナなどに使われた楽曲に見られた万有引力の中期以降の音楽と天井桟敷時代の音楽に関しては従来一部のファンによって音楽性の変化が指摘されていましたが、この作品の発表によってその謎はほぼ解かれたと言えると思います。
シーザー自身の発言に、寺山脚本の不在による力不足を埋めるため、合唱曲を多用する万有引力スタイルとも言える演出が生まれたとの言があるが、その音楽性は本質的に何も変わっていないといえるでしょう。
天井桟敷時代は寺山作品を演出するための音楽。万有引力時代は劇の傾向ががより難解でシュルレアリスムに傾倒した傾向があり、楽曲の歌詞には澁澤龍彦等からの引用も多い。それにあわせた演出をするための音楽というのが万有引力期の音楽なのだろうと思われます。
70年代後期以降のシーザーの音楽は多少の変化はあれど、別に時代の変遷による隔絶、乖離がみられるわけでなく、その変化は演出する題材の違いに過ぎないように感じられました。
鉱物見タテ図鑑 鉱物アソビの博物学 (P-Vine Books)
天然鉱物のの造形美を見立てて、遊ぶオールカラー標本BOOK。
鉱物を見立てる事で、単なる綺麗な石が別のものに見えてしまう面白さが伝わってくる写真集でした。
鉱物を見立てるという発想が面白いと思います
エロティシズム (ちくま学芸文庫)
バタイユのエロティシズムは哲学的というよりかは文学的に価値の高い作品に思われます。というのも、哲学書と何ら変わりない難解な用語を多様してはいるものの、言いたいことはいたって単純で、究極的な言い方になってしまうかもしれませんが、エロティシズムは禁止と侵犯の連鎖によって死にまで至らしめる生の賞揚と考えても間違いはないようにおもわれるからです。それに、あくまでエロティシズムとは大抵の人間(特に男性)の精神(或は肉体)の奥底に潜むエネルギーのようなものなので、本書は所謂、人間学を学ばせられているようなものだといって過言ではないように思われます。まぁ、エロティシズムをバタイユ(或はサド)ほど執拗に探求したものはいないですし、バタイユ作品は全体的に詩的な性格を帯びていることもあって、文学的には相当に認められるべき価値のある素晴らしい作品であると、私は思います。また、この甘美なる書を翻訳した澁澤龍彦氏には、私ごときが生意気ではありますが、誠に感謝したいと思います。