「バロン・サツマ」と呼ばれた男―薩摩治郎八とその時代
他の方も指摘されているが、素材が面白いながらも掘り下げが浅いと感じた。幾分トリビアに流れてしまっている感がある。同じトリビアでも例えば山口昌男の「内田魯庵山脈」のような化物のような本と比較すると見劣りする。勿論トリビアで山口昌男と比べられても勝負出来る方も少ないと思うが。
僕が著者に掘り下げてほしかった点は二点だ。
一点目。
なぜ薩摩がかような巨大な浪費を行ったのかという点だ。金持ちのボンボンだったからだというような簡単な見方は著者もしていない。薩摩だけの話ならともかく、同時代にも同様のガルガンチュアのような日本人がいたことを著者もしっかり紹介している。
巨額の私財を「贅沢好き」だけで使いきれるものではないと思う。そこに、時代の精神が必ずあるはずである。
著者が描き出す外務省を中心とする日本の官僚組織は薩摩を利用したと描かれている。真偽の程は僕には分からないが、いくばくかの真実味を感じる。では薩摩は自分が利用されているということに気が付かないほどお人よしだったのか。薩摩ほどの教養人(かどうかは議論の余地はあろうが)が、それを知らなかったとも思えない。それを分かっていながら、私財を突っ込ませる何かがあったと考える方が「考える訓練」になると思う。二次大戦前のパリという場所で日本人がどのような立ち位置だったのかをより分析することで何かが見えてくるのではないかと僕は思う。そこが本書にいま一つ書きこまれていないのではないだろうか。
二点目。
何故パリだったのか。本書はパリを主舞台としているが、例えばニューヨークやベルリン、モスクワで同時並行的に同じような事が行われていたのだろうか。
これも僕は知見がないが、有ったとしても、おそらくパリ程ではなかったはずだ。では繰り返すが何故パリだったのだろうか。
芸術というものが戦前の世界においてどのような存在だったのかを再検証することで見えてくるものがあるのではないかという予感が有る。21世紀の現在と1920年〜1930年代の芸術とはおそらく「存在の仕方」が違っているのではないか。
本書で描かれる芸術家たちは「孤高に耐える超人」ではない。「群れてどんちゃんさわぎしている酔人」だ。薩摩のパリでのとほうもない浪費の中には常に芸術家が傍らに立っている。では何故そこに芸術家が必要だったのかということだ。直感的に言うと、芸術が非常に政治的に重要な時代がそこにあったのではないかということだ。これも完全に僕が本書を読みながら考えた思いつきであるが、そういう思いつきを得られる読書は僕にとっては非常に刺激的だ。その部分も著者がもう少し深堀してくれていたらと思う次第である。
それにしても、昔の人には凄い人がいたものだ。読んでいて爽快感を覚える浪費である。
藤田嗣治「異邦人」の生涯 (講談社文庫)
従来の藤田観に比べれば、生身の藤田に肉薄していると思う。
ただし、著者の拠って立つスタンスは不明瞭に感じる。
夫人の記憶や意見を、著者自身の藤田観にどう位置付けるのか、
戦争画をどう位置付けるのか、そういった点で、著者の意思は感じられない。
国立近代美術館の「アッツ島玉砕」という作品をみると、
藤田の戦争画は、とても本書に書かれている程度の位置付けとは思えない、
藤田の心の深淵に踏み込む最重要テーマだと思うのだが、
その疑問はいまだ解消されていない。
藤田嗣治画集 素晴らしき乳白色
素晴らしすぎる。
巨匠藤田嗣治の絵をまじまじと見ることができ、
また写真も掲載されており、藤田嗣治という人間が
身近になる画集である。
この価格を出しても持っていて損はない。いや、
むしろ、持っていないほうが損である。
石井好子 追悼総特集 シャンソンとオムレツとエッセイと (文藝別冊)
去年亡くなられた、シャンソン歌手・石井好子さん。
戦後、まだ一般人の自由な渡航ができなかった時代、アメリカに留学し、
大臣の娘でありながら、パリのキャバレーで歌った女性。
フランスでの生活、シャンソン、食べ物、料理。
藤田嗣治をはじめとする芸術家との交流。
さまざまな人が語る石井さんの人となり。
それらを通じて浮かび上がってくる、石井さんの人生。
単なる故人へのオマージュにとどまらず、「石井好子とその時代」とでも
いうべき追悼特集だった。
石井さんの著作は多数あり、そのほとんどは絶版になっているので、
エッセンスをまとめて読める本書は、ある意味貴重。
「オムレツの石井さん」しか知らなかった私の、よき入門書にもなりました。