希和子のメロドラマになっていたドラマよりは全然よかった。
誘拐された側、恵理菜が主人公になっていて、共感しやすい。
恵理菜の本当のお母さんが人相悪すぎること以外は配役もいいと思います。
小豆島のシーンは情感があって、虫送りの場面は涙を誘うほど。
でも、希和子が悪い事をせざるを得なくなった背景、(父が死んで天涯孤独になっていたこと)があいまいなのは、うーん・・・。
第一章と第2章がごちゃ混ぜになって話が進むのが分かりづらい!
細かいことだけれど、千草が自分の過去を打ち明ける時に泣きながら話すのが不自然でした。
愛情にはスゴイ力があるけれど、愛情だけでは人を育てられない。そのことをバランスよく描かれている原作(小説)には、やっぱりかなわないですよね。
著者の作品は粗方読みつくした著者のファンです。 同著者作品「家日和」があまり趣向にあっていなかったのか、なんたら賞を受賞するほどの出来に感じなかったので 「家日和」と似通ったタイトルの本作品は優先順位低めに設定しました。そのため、発売されてからだいぶ経っての読書となりました。
本書はタイトルに「家」と入っている通り、各家庭でのちょっとした問題をテーマに取り上げた短編集です。 けれど、大体の話は短編の中でまとまりがついているのですが、幾つかのお話はまるで第一章完のような、序章の結みたいな続きを期待させる終結で尻切れ蜻蛉感が否めませんでした。このような事から、短編というよりもむしろ自然に流れていた物語の一エピソードを切り取って文字に起こした文字版無差別アルバムのような印象を受けます。
登場人物は物語同様等身大であり、伊良部医師シリーズのような型破りで痛快な性格を持っている人は登場しません。 みな、この狭いようで広い日本列島のどこかしらに実在してそうな現実味・生活感があります。けれど、大手企業の社員だったり これまた、大手放送局の社員だったりとなぜか大企業に勤める夫の割合が高く、現実で霞をくって生きている自分には肉食の者達に 心から感情移入することはできませんでした。折角、「家」という多くの人が持っている身近な空間が舞台なのですから ここは中堅企業の課長とか製造業とか比較的従事人数が多い職種を選択したほうがよかったのでは。
文章力は相変わらずわかりやすく衰え知らずで、すらすらと読み進めることができ、一話一話の短さと相関して実際読破にかかった時間よりも 体感時間的には短く感じられました。人物描写は勿論その周辺事情の描写もあたかも当事者が書いたようで上手いんですよね。
んー、自分が所帯持ちじゃないことも関係しているのか、本作品も「家日和」と同じくそんなに楽しめなかった。舞台が問題なのか それとも著者には短編形式が向いていないのか。次に「家」関連の小説を書く時は是非長編で執筆してもらいたい。そうすれば 上記の理由が判明するはずだ。ただ、個人的には「家」をかくなら初期作品「邪魔」等のどちらかといえば薄暗いお話を書いてもらいたいです。 カムバック、ダーク奥田。
「家日和」を楽しく読破できた方、もしくは本書未読で奥田作品のファンである方は 読んでみて悪くないでしょう。
日本の三大花街として栄えた長崎・丸山。その唄の見事さと気風の良さで丸山きっての名妓と言われた愛八は明治7年の生まれ。一方、大店の旦那でありながら市井の郷土史研究家として膨大な「長崎学」の著書を残した古賀十二郎は、フィールドワークの一環として?丸山で豪遊もしたが、地元の歌が歌われていないことに寂しさを覚えていた。大正末期、その二人が出会い、当時廃れていた長崎の古い歌を訪ねて歩き、「ぶらぶら節」を発掘する。昭和6年、各地の民謡を取材していた詩人=西條八十は丸山で愛八の歌う「ぶらぶら節」を聴いて感銘を受け、自らプロデューサーを努めてレコード化する。そうして「ぶらぶら節」は、今日ではおくんちには欠かせない長崎を代表する歌となったと言う。時は下って平成6年、愛八のレコードを知った作詞家=なかにし礼は「衝撃に近い感動」を覚え、長崎に取材して愛八と古賀の物語を「長崎ぶらぶら節」という小説にまとめた。これは直木賞を獲るとすぐに映画化、TVドラマ化、舞台化される大ヒットとなった。そのおかげで、愛八の録音がこのようにCD化されることとなった。なかにし礼は、愛八を「何の飾りもなく、聴き手にこびず、潔く自分を投げ出した歌いっぷり。そこに人生の喜びと悲しみを感じさせる。エディット・ピアフ、マリア・カラス、アマリア・ロドリゲスに匹敵する歌」と賞賛している。何の異議もない。
今まで読んだことのない著者でしたが、多分若い人になじむ作風なのでしょう、すでにいくつもの作品がベストセラーになっています。今回、直木賞を受賞しました。68歳のオジイサンとしては年甲斐もなく、お祭り騒ぎに加わる野次馬となって、手に取ってみたのです。著者が千葉大学の卒業生という点にも興味がありました。
「仁志野町の泥棒」「石蕗南地区の放火」「美弥谷団地の逃亡者」「芹葉大学の夢と殺人」「君本家の誘拐」の短編集です。 主要登場人物はここに示される通りの何らかの犯罪者であり、その犯罪者と深く拘わる女性が中心ですから、ミステリー風に進み、「最後はどうなるの?」という筋追いだけですぐに読了できる内容でした。
罪を犯すもの(男もあり女もある)とそれに拘わる者(すべて女で一人称のわたし)の会話と拘わる者(わたし)の語りで物語は構成されています。著者の視点はありません。 飾り帯にはこんな一節が紹介されている。 「どうしてだろう、と歯を食いしばる。どうしてだろう。私には、どうしてこんな男しか寄ってこないのだろう。―石蕗南地区の放火―」 「岐路に立つ5人の女達。望むことは罪ですか」 「恋愛、結婚、出産。普通の幸せ、ささやかな夢を叶える鍵を求めて魔が差す瞬間」 犯罪者である相手と女達にはいくつか次の共通点がある。 社会人としての資格がない未熟児がそのまま成人した。 精神が病的に歪んでいる。 罪と罰の意識を持ち合わせていない。 つまらぬことに強いこだわりをもっている。 自分勝手な思い込みの世界と現実の世界とを区別できない。 誰かを頼る、誰かから頼られる関係がないと生きている心地がしない。 こういうレベルの人たちですから、つまらぬことを深刻に語り合いあるいは悩みぬきますが、逆に深刻な事態を前にすると軽口を飛ばして逃避するのです。
「どうしてだろう」と自問するまでもない。 これでは普通の幸せやささやかな夢など、はじめからつかめるはずがないではないか。 オジイサンはひどくあきれ返ってしまったのです。 世代間の価値観の相違であるはずがない。 これは絶対的にオカシイ………と。
第一話「仁志野町の泥棒」を次のようにとらえればある程度は評価できるでしょう。 幼いころ強いショックを受けた事象があるとする。ところが大人になって、なんらかのきっかけで振り返ったとき、もしかしたらあれは記憶違いだったのではなかろうか、夢だったのではないかと、長いこと重く残っていたものが突然解消する………ということはある。でもこういうテーマではなさそうだな。
第五話「君本家の誘拐」。子育てに苦労しているわがやの娘をみていれば、こんなこともありうるかとは思います。ただし、家内に言わせればうちの娘はこんなバカ女ではないと言いました。
残りの三つの短編はなんとまぁ、語る言葉もありません。
どうしてこの作品が賞に値するのか? たしかに異常な、動機不明の凶悪犯罪が頻発している。いつなんどき身近で起こるとも限らない。ありうるお話!日常に潜む狂気に背筋が寒くなる………との効果を狙ったものかとも思うが、それにしてはリアル感がない。
「これは睡眠中にみたその夢をかいているのよ、めちゃくちゃなのは現実の話ではないからなのです」と家内が言った。 この説によれば、すべての作品の終わりに「………という夢を見た」と加えればよろしい、ことになるのだが、それでは権威のある直木賞受賞作品に対しあまりにも短絡です。
彼ら彼女らは「怖い夢」を見ているのだ。著者はその「夢」を丹念に描写している。 ただし、「夢」とは多様な意味合いがある。 (スーパー大辞林より抜粋) 1 睡眠時の幻覚体験。非現実的な内容であることが多いが、夢を見ている当人には切迫した現実性を帯びている。 2 将来実現させたいと心の中に思い描いている願い。 3 現実とかけ離れた考え。実現の可能性のない空間 4 心の迷い。迷夢 5 現実を離れた甘美な状態。 将来に希望を託せない世界に彼ら彼女らは閉じ込められている。現実にこういう閉塞感はあるのかもしれないと思います。第一話から第五話まで登場人物はこの「夢」のどれかの組み合わせで、まさに「夢を見ている」のです。現実の世界と「夢」の世界には扉があって、普通の人は両世界間を出入りするのに自覚という鍵を持っているのですが、鍵を持たない彼ら彼女らはどちらの世界に立っているのかがわからないのです。そして衝動的に閉塞状況を乗り越えようとする瞬間、陥穽にはまり現実社会では窒息してしまう。
著者はあえて自分の価値判断を回避し、その状況をそのままに描いているのではないだろうか。人間に潜む悪意や差別、嫉妬、異常、暴力などノワールな内面を今風にライトに描いたところが評価されたのかもしれない。ただライトに描写しているものの本質的にはそこに救いはないのだ。
当初は一日一話程度のペースで見ようと思っていたが、つい引き込まれて一気に全話を見てしまった
あらすじは以下の通り
若い母親が子供を連れて街を歩く中、通りがかったトラックのタイヤが突然外れてしまう。そのタイヤは母子のほうへと飛んでいき、幼い子供の目の前で母親が死亡してしまった
事故を起こしたトラック「ドリーマー」の製造元であるホープ自動車の調査による事故原因は整備不良。しかし渦中の運送会社の赤松社長が社員の整備士を信じて真相を追究していった結果、「ドリーマー」の欠陥とホープ自動車のリコール隠しの実体が徐々に明らかにされていくのであった
毎回ラストでは「このドラマはフィクションであり...」というお決まりの文句が流れるが、三菱ふそうトラックの脱輪およびリコール隠し事件を題材にしているのは明らか
以下の4人を中心に描かれているが、主人公である赤松社長だけでなく、いわば敵役のホープ自動車側の人間模様に多くの時間を割いている点が、このドラマにリアリティを与えていると思う
・社員と家族に支えられながら地道に真相を追究する赤松運送社長の赤松(仲村トオル)
・自ら自動車を作るという夢を捨てられないまま、不本意ながら顧客の苦情受付係をこなすホープ自動車カスタマー戦略課長の沢田(田辺誠一)
・リコール隠しを主導し、傲慢だが家族想いの一面もあるホープ自動車常務の狩野(國村隼)
・狩野常務の姪の婚約者で、ホープ自動車への融資を命じられながら自らの仕事の正しさに思い悩むホープ銀行調査役の井崎(萩原聖人)
このドラマの中ではホープ側の人間はとにかくウソをつく
自社のトラックの欠陥を隠すため、ウソの報告書で押し通そうとする狩野常務と品質保証部
リコール隠しの実体を暴くために品質保証部のパソコンに不正アクセスする一方で、それを社外に知られないために赤松社長と対立する沢田課長
ホープ銀行への支援情報をマスコミにリークした井崎にいたっては、失脚した上司から「私の経験からしてウソのうまい銀行マンほど出世する」との捨て台詞をいわれてしまっている
仕事柄、大企業とのお付き合いの長かった身としては、決して悪人ではない彼らがウソをつくことに追い込まれる構図というのは理解しているつもり
だからこそ、このドラマに圧倒的なリアリティを感じてしまうのかもしれない
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