土曜ドラマ枠の作品は秀逸なものが多く、よく観ます。 外事は…本当に衝撃的でした。 ストーリー、キャストはもとより、 あえて観づらい画質や聞き取りにくい演出も含めて、素晴らしいと思います。 個人的にはハゲタカを越えました。
北野武がやりたかったことが一番端的に表現されている作品。 そういう意味において、北野作品の最高傑作はソナチネではなくて、こちらなのではないかと思わせるほど、静かで、暴力的な魅力が本作にはある。 ラストが夢オチなのにガッカリ、ストーリーに破綻をきたしている等の批判もあるようだがそれはお門違いだろう。 この映画は部分が全体を表し、全体が部分を表すというフラクタル構造を持った映画なのであって、あれは夢オチなどではない。 北野演じる狂気の男が車内で、自分の死を予感したような、一瞬の映像を見るシーンがある。 この「部分」 がその後実際に起こる「全体」を表しているのだ。 そしてラストでは、主人公がトイレに入っている、冒頭と同じシーンが流れる。 今まで観てきた映画の「全体」は主人公にとっては一瞬でしかない「部分」を表わしたものだったのである。 北野演じる男はひたすら動的に演出されているが、それとは対照的に主人公はどこまでも静的である。 しかし、そんな二人に共通するのは、ある種の自殺願望ともいえる、自分をどこまでも客観視して世界を達観する、いわば死の予感に彩られた冷たい「視線」だ。そこには哀愁さえ漂っている。 すべては終わったことではなくこれから実際に起こる現実なのだ。
草なぎ君は超カッコイイです!優しくて、生徒に近い先生で、あんな先生いたらいいなあと思わせてくれます。 見応え充分の学園物ですよ! 篠原さんに付き纏われている剛君が新鮮です!
BOXないかなと待っていたので買います♪
象徴界や女についての既存の理解から常に排除されてきた《女性的なもの》を表現するために、フロイトを、そしてラカンを書き直そうと試みる一冊。 イリガライによれば、これまでの想像界についての理解、女についての理解は、常に男性の視点からなされてきた。結果、私たちが唯一知っている女性とは、「男性的女性」すなわち「男から見た女」に過ぎない。そこで、彼女は、想像界や女について別の視点から考えることで、《女性的なもの》を表現しようとする。 その際に、男性的言説から離れることが必要不可欠である。なぜなら、男性的言説を支えてきた哲学的ロゴスは、「どんな他者をも同一者の体制の中へと還元して」しまうため、そこでの女は、特にフロイトの理論に見られるように、「常に価値を独占する唯一の性である男性の性の欠落、萎縮、裏面として描写」されてしまうからだ。 それでは、《女性的なもの》を表現していくためには、どうすればよいのか?本書からは、主に三つのストラテジーを読み取ることができる。第一に、《女性的に語ること》である。しかし、それが具体的にどのようなことなのかは漠然としか示されていない(正確には、漠然としか示すことができない)。おそらくイリガライにとって《女性的に語ること》とは、「男性的言説の、また男性的言説に対する、可能な他者性」としてイメージされているのだろう。 第二のストラテジーは、女性のセクシュアリティと関係している。ここでイリガライは、女性の性感帯が暗に意味する「複数性」を強調しているのだが、これは、これまで単一的な思考様式に代わる複数的な思考様式の可能性のことを示唆しているように思われる。 最も有効なストラテジーとして提示されているのが、第三のストラテジーである「模倣」、すなわち「歴史的に女性的なものに割り当て当てられてきた(中略)役割を故意に引き受けること」である。これにより従属は主張へと転じ、そのことによって、従属の裏をかくことができる、とイリガライは考えている。
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