象徴界や女についての既存の理解から常に排除されてきた《女性的なもの》を表現するために、フロイトを、そしてラカンを書き直そうと試みる一冊。 イリガライによれば、これまでの想像界についての理解、女についての理解は、常に男性の視点からなされてきた。結果、私たちが唯一知っている女性とは、「男性的女性」すなわち「男から見た女」に過ぎない。そこで、彼女は、想像界や女について別の視点から考えることで、《女性的なもの》を表現しようとする。
その際に、男性的言説から離れることが必要不可欠である。なぜなら、男性的言説を支えてきた哲学的ロゴスは、「どんな他者をも同一者の体制の中へと還元して」しまうため、そこでの女は、特にフロイトの理論に見られるように、「常に価値を独占する唯一の性である男性の性の欠落、萎縮、裏面として描写」されてしまうからだ。
それでは、《女性的なもの》を表現していくためには、どうすればよいのか?本書からは、主に三つのストラテジーを読み取ることができる。第一に、《女性的に語ること》である。しかし、それが具体的にどのようなことなのかは漠然としか示されていない(正確には、漠然としか示すことができない)。おそらくイリガライにとって《女性的に語ること》とは、「男性的言説の、また男性的言説に対する、可能な他者性」としてイメージされているのだろう。
第二のストラテジーは、女性のセクシュアリティと関係している。ここでイリガライは、女性の性感帯が暗に意味する「複数性」を強調しているのだが、これは、これまで単一的な思考様式に代わる複数的な思考様式の可能性のことを示唆しているように思われる。
最も有効なストラテジーとして提示されているのが、第三のストラテジーである「模倣」、すなわち「歴史的に女性的なものに割り当て当てられてきた(中略)役割を故意に引き受けること」である。これにより従属は主張へと転じ、そのことによって、従属の裏をかくことができる、とイリガライは考えている。