旧版があまりにヒドイ画質なので、ニューマスター登場確実と思っていたら、案の定、出ましたね。旧版買っていて悔しいけれど、旧版より値段が安いので当然買います。アンリコ(監督)&ドルーベ(音楽)最高作と言ったらこれ。「冒険者たち」も「ラムの大通り」も「追想」もこれと比べたらかすみます。しかし「HDマスター」というのならなぜブルーレイで出さないんでしょうか。欧州では「軽蔑」や「去年マリエンバードで」や「昼顔」などの旧作名画が続々とブルーレイ化されているのに、ブルーレイを開発した国がこのていたらくというのは訳がわかりません。しつこいようですが、後からブルーレイ出してまた買わせる、というあこぎな商売なら、やめにして下さい。
村上さんの世界であろう乾いた空気感がよく表現されています。 配役も絶妙で、小説の世界を表しています。 是非見て頂きたい作品です。 「風の歌を聴け」も映画化されていますが、これはビデオもないので今となっては幻の作品です。
90%以上の値引率を不審に思って調べたら、同じメーカーの時計を扱うサイトでの価格はせいぜい2万円(同じクォーツ時計)程度でした。 http://www.salvatoremarra.com/index.html (Salvatore Marra(サルバトーレ マーラ)オフィシャルサイト)
こちらに掲載されている商品はありませんでしたが、10万を超える参考価格は眉唾物だと思います。
ただ上記のサイトに掲載された商品に比べれば安いようですし、参考価格は無視して他の情報から判断して、気に入ったなら購入すればいいと思います。
誤解を恐れず言うなら、私自身は村上春樹という作家の作品は本来、このように新作が出るたびに大きな話題となって、一度に何十万(百何十万)部という膨大な数の本が売れるようなものではないと思っています。私から見た限りでは、その作品群には全体的に色濃い「孤独」の影が漂っています。そしてたとえ多くの人が潜在的にその「孤独」を背負っており、村上春樹がその「孤独」を描出する手腕が傑出したものであったとしても、その「読者」と「作品」との間に存在する「孤独感」(あるいはその他の感情)の共鳴は、より自然に自発的に(つまり宣伝文句で煽られるのではなく、読者の側の自然な心の求め方によって)なされるべきだと思っています。そして(村上作品ファンの方々だったらおわかりいただける感覚だと期待しているのですが)、読者と作品との間にそのような幸福な「共鳴」が訪れた時に初めて、その作品はその人にとってとても大切なものへと変貌するのだと思います。
この新作についても、作品全体には同じく濃密な「孤独の影」があります。主人公の多崎つくるは過去の出来事により、ある時期強く「自分が死ぬこと」を求めるようになります。それを何とか乗り越え(たと自分では思っている)、社会人として東京で働いている時点を現在基点とし、彼がその過去の出来事と一つ一つ向き合っていくさまが作中で描かれます。
他の村上作品によくあるように、この作品の主人公である多崎つくるも他人との広い交際を持たず基本的には孤独であり、また「人生を生きていく事」に対してあまり情熱的な姿勢を見せません。そして彼自身はそんな自分の薄ぼんやりとした(色彩を欠いた)存在に対して疑念を抱いており、そんな自分が人に何かを与えることができるのかと(ぼんやりと、しかし執拗に)悩み続けます。
そんな彼が、リストのピアノ曲「巡礼の年」に触発されるように、そして過去と向き合うことを通して自分自身の生きる意味を確認するかのように、過去への「巡礼」の旅に出かけます。
その「巡礼」の間に彼が何を見出すのか、それは読書の楽しみとして具体的には書かないでおきますが、ただその「巡礼」は彼にとってほろ苦い切ないものとなっています。そして作品全体はその「苦さ」や「切なさ」を「生きていくうえで避ける事のできない不可分もの」として提示し、それを通してしか人は生きていく事はできないのだ、と言っているかのようです。それは一つの苦い認識ですが、しかしそれだけに、作中で時に語られる「時間が経っても変わらない、昔も今も変わらずある良きもの」の掛け替えのなさも際立つかのようです。そしてこのような苦さや切なさ(時に不気味な薄暗さ)が作品の基調を成しているにもかかわらず、全体として「それでも我々はこの人生を生きていくのだ」という足取りを感じることができるのもまた確かです。
上にも書いたように、私自身は村上作品は自分がそれを自然に欲していると思った時に、自発的に手に取った時にこそ真の共鳴が得られると思っています(そしてこの作品に限って言えば、大変な話題となっている現状には反して、この作品に心底共感できる人の割合はもっと少ないと思っています)。ですからこの作品に関しても、私は積極的には他の読者の方々にはお薦めしません。ただし上に書いたような諸点に何かしら共鳴するものを感じられる場合であれば、もしかしたら手に取ってみる価値はある(そしてこの作品がその方にとってとても大切なものになる可能性がある)かもしれません。
最後にこの作品全体に関する私自身の印象を。既にレビューで指摘されている方もいらっしゃいますが、熱心な村上ファンならすぐにわかるような、過去作品で登場したモチーフがこの作品には頻出しているように見えます。あまり村上作品に接したことのない読者なら新鮮に見える点も、そういった昔からのファンにとっては「焼き直し」に見えてしまう恐れもあります。ただしそれらは考えようによっては、それだけ作者にとって重要なモチーフであるとも言えるのかもしれませんが。
ただしその文体に関しては、近年の村上春樹が持っていた「三人称の語り」への強いこだわりが、この作品では完成形に近づいたかのように見えます。作品に存在する切なさや寂寥感とも呼応して、その語りは全体的に静謐な美しさに満ちています。文章自体がこのようにある種の魅力を備えてもいますので、(上に書いたことと矛盾するかもしれませんが)「試しに読んでみる」つもりで読んでみても恐らくスイスイと読むことができると思います。そして読み終えてすぐには印象に残らなかったとしても、後々自分自身の境遇や心境が変わるにつれて、再度この作品を手に取ってみたくなる瞬間もあるかもしれません。もし気が向いた方がいらっしゃれば、そんな瞬間を期待してこの作品をとりあえず手に取ってみるのも良いかと、個人的には思います。
■ 1960 年代、東京。神戸から上京して私立大学に通っている生真面目な学生ワタナベ・トオルは、17 歳で自ら命を絶った親友・キヅキのガールフレンド、直子と東京で偶然に出会った。やがて二人は親しくつきあいはじめるようになるが、キヅキの死は、やがてふたりに異なる影響を与えはじめる。直子はますます自分だけの世界に閉じこもり、トオルは少しずつ外の現実の世界に順応していく―― ■ 『グレートギャツビィ』について永沢さんとトオル君が同様のことを話していましたが、20 回以上読んでいるにもかかわらず、読み直すたびにまったく新しい驚きのある作品です。読んだときの年齢によって、心の琴線にひびく箇所が異なるせいでしょうか。講談社の国内向けの翻訳物とは細かいところが少しずつ異なっているので、比較して読んでみると楽しいと思います (ただし、残念ながらこちらはすでに out of print です)。表紙のデザインが、私がミドリだったら「ひどいわよ。あんなのロバのウンコよ」といってしまうかもしれないぐらいヒドイのですが (思わずデザイナの名前を見ました)、ぜひ表紙で判断されることなく内容を楽しんでください。
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