国木田独歩は明治の人です。だけど新鮮です。 物語の入り方や展開の仕方など、意外なところがあって楽しいです。 太宰治も何かの本で、『国木田独歩はうまい』と書いていたのを読んだことがあります。 この『武蔵野』は独歩の最初の作品集で、いろんな物語が詰まっていて、わたしは『初恋』『置き土産』『糸くず』・・・やっぱり全部いいです。 本当に、独歩はうまいです。
この本には、「牛肉と馬鈴著・酒中日記」の他にも、たくさんの独歩の作品を味わうことが出来ます。そして、その物語のほとんどが、あまり明るいものではありません。だけど、読後感は何だかサラリとしています。きっとそれは、国木田独歩という人が、澄んだ眼差しを持っていたからじゃないのかな、と、国木田独歩のことなんて何も知らないのにそんなことを感じてしまう不思議な本です。
はじめて本書を手にしたのは、かなり昔だったと思う。その後、何度読み返したかしれない。さりげなく、訥々とした口調ではじまる独歩の語りが、徐々に熱を帯び、饒舌となり、武蔵野への手ばなしの賛美にかわってゆく様が、とても微笑ましくゆかしい。時雨や楢林や小鳥や月、雪と風、そして、そこに住む人々への親しさ、なつかしさを、飾らない言葉で記したメモのような文章が、同時にもっとも美しい日本語の作品にもなっているのは、信じられないような気がする。馥郁たる明治の香りが、そこはかとなくただようなか、みずみずしく新鮮な武蔵野の自然を、そのままうつしとったかのような圧倒的な描写の迫力。読んでいると、目の前に楢林が広がりはじめ、黄葉した木の葉が火のように耀き、小鳥のさえずりや梢を鳴らす風の音が聞こえ、わたしのこころには、武蔵野の音楽がしんしんと流れる。
武蔵野について語る人は、‘昔の武蔵野は…’と失われゆく(もしくは、ほとんど失われてしまった)武蔵野の自然を惜しむ言葉を、しばしば口にするようであるけれども、その愛惜措くあたわざる武蔵野の自然をいつくしみ、愛で、しのぶ気持ちに於いて、昔も今も(独歩もわたしたちも)かわらぬ気持ちを共有しているようなところが、また武蔵野の特色のひとつであるのかもしれない。
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