私は小熊英二氏の著作(民主と愛国、戦争が残したもの)によって著者を知ったが、その生き方には強くひきつけられた。その鶴見氏も、埴谷雄高の生き方に相通ずるものを感じていることが、この本を読んで伝わってきた。鶴見氏のジャワにおける戦争体験、埴谷氏の獄中での転向体験は、この本を読む、特に若い読者に、何か自分も同じ経験がある、と感じさせるところがあるのではないだろうか。私は埴谷氏の著作をまだ一冊も読んでいないが、これからの時代を生きるにあたって、今とはくらべものにならないほどの混乱した時代を生きたこの先人の著作を読むことが、何かの指針を得ることになるかもしれない、と思っている。
没後25周年を記念して埴谷雄高、川西政明の監修で発行された。 『憂欝なる党派』と並ぶ代表作、高橋和巳の罪と罰を鬱々と描き出す独特の世界に思わず時を忘れる。 巻末の三島由紀夫との対談『大いなる過度期の論理』と三枝和子のエッセイ『わが青春の京都時代』も興味深い。
第七章「最後の審判」は、最初はそんなに難しくなさそうだけど論が進むにつれて相当難解になっていく。「夢の王の王冠」の話のあたりからだ。存在と宇宙のあり方についての話が、結構抽象的だったりたとえようもなかったりして分かりにくい。第三巻まで来て、なかなか読み進められないところにぶつかる。
だが、物語の舞台がそもそも抽象的だったことが、ここでは存分に役割を果たしているとも言える。
ある人は、この物語の終盤は光に満ちていると書いていた。確かに、光あふれて人間らしい描写が終盤には特徴的である。作者はこの作品を書き続けることができて幸せだったのではないだろうか。あるいは、一般的な、気まぐれで本書を手に取った読者にしてもそうなのかもしれない。
ここに綴られる言葉は、そのまま「死霊」へと繋がる。 「死霊」は、この想念を具体化するために始められたはずだ。 抽象的な「死霊」。これが原点。
「埴谷雄高生誕100年を記念し、四半世紀を経て初文庫化!」という企画も可笑しいが、埴谷雄高がこれほど饒舌で躁病的であるとは、お株を奪われた北氏自身がビックラこいた、うれしはづかし昭和末期の文豪対談(?)である。
対談直前に北氏が著したブラジル移民小説・「輝ける蒼き空の下で」をネタに二人の[妄想病VS躁鬱病]対談が始まる。この二人は北が埴谷を敬愛してやまないという関係にあるものの、今回のこの対談では、どちらが先輩でどちらが弟子であるかよくわからなくなってくる。
また「解説」を書いているこの対談の音頭取りで当時の中央公論社の編集員である宮田毬栄と二人の写真が載っている。どうでもいいことだが、無視できないことにこの宮田氏は「いわゆるひとつ」の「美しい人」である。可笑しなことに埴谷氏は、この宮田毬栄は三人姉妹の真中で、姉の康栄は文芸春秋社におり、末の妹はまだ埴谷の家には来ていないことをわざわざ「あとがき」で書いている。埴谷は「死霊」なんて難解なものを書いているかと思いきや、共産党から転向したりしていやもうまったく「変な人」である。
「埴谷雄高生誕100年記念文庫!」という企画、当たっていると思う。
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