わたしにとって金字塔的作品です。
「聖少女」では、未紀という少女だけが名前を持っている。
倉橋由美子の小説で特徴的なのは主な登場人物が記号で呼ばれることだ。
一人称で語る「ぼく」はKという記号を持っている。 Kの姉はL、未紀の女友達はM、「作家」の夫はSと顕されている。
もちろん、これは名前の頭文字ではなくてその人格を象徴的にあらわして分類する、識別子です。
選民と賤民の識別子、象牙細工と粘土細工のちがい、とるに足るものかそうでないのか。
カフカにもありましたよね、というかカフカの実験を引き継いでいる。
どこをどうみても粘土細工そのものだった十代の私は、
賤民が木陰にこっそりと隠れて貴族の雅な世界をのぞき見るような、心地よいマゾヒスティックを感じていました。
解説の桜庭一樹によれば、未紀は桜庭一樹(念のため・・・女性です)の母親と同世代で、今や65歳になっているのだという。
いつの時代でも、若い人たちは他の世代を人間として認めない。
自分の世代だけがカラフルに彩られて、そこからはみ出た人間はユラユラと揺らめくのっぺらぼうな濃淡の影として存在しているだけなのですが、
その中に「聖少女」の未紀も静かに紛れ込んでいるのだと想像すると、心強い気持ちに満たされました。
倉橋の小説を買ふのは仮名遣ひのためだといふ読者が多かつたやうな気がする。 『夢の浮橋』は桂子さんシリーズの最初で、『等しいものは等しいものによつて知られる - 認識が性行為であるならそれは(人知れずの)近親相姦である』といふ倉橋桂子の認識論・存在論に基づいてゐる。 それを十分展開しないうちに病気になり亡くなつてしまつたのは残念である。
一つ分からないといふか気に入らないのは桂子さん手慰みに − 余り趣味が良いとは思へない − ドメニコ・スカルラッティの(ピアノ)ソナタを弾く理由である。作者自身が日常弾いてゐたのであらうか?
倉橋由美子さんの怖さは、寓意ではなく、誰も気付かなかった点に気づき、
直裁的に指摘する点にあると思う。が如何か。
ぼくは、故倉橋由美子さんのファンであるが、本作はいただけない。
小説を読んで、頁をめくる手が止まらなくなるのは、優れたストーリーに
出会った時だ。でも、それだけでは駄目だ。
小説を読んだら、頁をめくる手が止まって動けなくなることがある。
それは小説の内面の深さに打たれた時だ。
だが、そのどちらもこの小説にはない。
ぼくは老人で老い先が短いが、この本以外にも、読む本が沢山あって、
その時間はきっと足りなくなってしまうであろう。
それがぼくにとって、 今一番残酷なことなのである。
でも。そんなことを言っても黄泉の国の倉橋さんには、
届か、ない
この書籍を薦められ、読ませていただいた。 表題作「パルタイ」は、作者がまだ若かったせいか幼く、読み手としては作者の哲学と観念を見せられているような気がし、小説としては味気がない。 しかし、「貝の中」、「蛇」の小説は、まことに読み応えがあり、むしろ「蛇」などは、表題作よりも優れ、安保時代の象徴的な小説で、私などの安保の頃など知らない世代でも、作者の時代への反感や違和感などが伝わってくる。 残念だったのは「密告」だった。この作品が収録してないければ、まちがいなく損をしない書籍になるはずだった。これは、ジャン・ジュネ作品に影響を受けているらしいが、「密告」に登場する人物たちは「ノ-トルダムの鐘」、「泥棒日記」の登場人物そのものであり、完結したそれらの物語をだらだらと描いたどうしようもない二次作品である。 比喩の仕方、表現も、ジュネそのものの「密告」は、ジュネ文学を気取る駄作だった。
誰でもココロのどこかに欠けている部分があると思います。
それは単に満たされていないという事にとどまらず、果たせなかった夢だとか、死に別れた大切な人だとか、悔いの残る結果を残してしまった事だとか、愛してるのに結ばれなかった恋人だとか、この物語で探しているものは、そういうココロに空いた『穴』のようなものを埋めてくれる『なにか』なのではないでしょうか。
もしくはモラトリアム期に誰もが強く感じたような理由のない孤独や喪失感との戦いかもしれないし、もしくは人生を共に歩んでゆけるパートナーを探しているかのようにも感じられます。
しかしこの本の結末で描かれているのは、それらに対しての明快な「答え」ではなく、結局は自分自身と向き合っていくことで解決の糸口となるのではないか、という提案でしょう。そこからまた新たな旅が始まり、そして続編の「ビッグ・オーとの出会い」へとさらなる飛躍をとげます。
シルヴァスタイン、そして訳者の倉橋さんが仰るように『ダメな大人』にも『そうでない大人』にもぜひとも読んでもらいたい物語です。
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