この小説はメタ小説なのであろうか。
複雑な構成を取っているわりには、読みやすい。
叔父の発する意味不明の言語から、叔父の人となりを浮き彫りにしようとしている。
しかし読んでいても、叔父にはあまり魅力がなく、読み終わって一番印象的な人物は、チューリップ男であった。
ユーモラスでありながら、現代人のやり場のないストレス感を表現している。
叔父の姿はデフォルメされているとしても、意味不明の言語を発するということは多々あることである。
それ故、それ自体にさほどの魅力を感じない上に、「アサッテと定型」の間に叔父のジレンマを見出していくという結論は、読んでいて物足りない。
ラスト部分に出てくる「■■■!」はいただけない。
意味不明の言葉の爆発を大文字の記号で表現されては、今まで読んできた読者はいったいどうしたらいいのか。
評者・石原慎太郎の批評を待つまでもなく、物書きならば言葉でその爆発を表現してもらいたかった。
映画「舞踏会の手帖」を想わせる体裁(意匠は異なるが)で、ヒロイン(=作者)が過去に偶々出逢った"犯人"(犯罪人ではない)達への回想を徒然に綴った物語。作中に「言葉の実験とは何か」、「実験文学は社会の役にたつのか」といった言辞があるが、これがドイツ在住のクレオール作家と呼ばれる作者の意匠を反映していると言って良いだろう。"犯人"を対象としているのは、パスポートを携帯していなければ不法滞在で逮捕されるかもしれない(永住権取得前)といった作者自身の恐怖観念体験にも依ると思われる。
そして、描かれるのは人が他人を理解する事の困難性である。国籍、文化、言語あるい個性を越えて(危険の香りがする)他人を理解出来るという(ヒロインの)思い込みが、実は自身の精神的危険を招くという警鐘と自戒の念が込められている。人生は退屈で平凡なものであって良い(むしろその方が良い)という趣旨かもしれない。
「犬婿入り」と比べると、文体上の実験は少なく(言語に対する多少のクスグリはあるが)、構成上の実験を試みたという印象が強い。実験を試みる程のテーマとは思えない気もするが......。題名通り、読む側もフワフワした意識で臨むのが良いのではないか。何しろ、本当に「雲をつかむような話」なのだから。
多くの読者は、この本を読んで多和田葉子の豊かな言語感覚に嫉妬せざるをえないだろう。彼女は常人では届かぬ言語宇宙のかなたに行ってしまっている。そして、読者に言語の持つ新たな可能性を手際よくみせてくれる。ほとんどの言語学者は言語を死物のように扱いただ分析するだけなのだが、彼らの書く愚にもつかぬ本をいくら集めてもこの『エクソフォニ-』には及ばない。 多和田葉子という希有な水先案内人とともに言語宇宙を旅しようではないか。
第一部は書き下ろしで、幼少時代に使って身につけた母語とそれ以外の外国語で思索・創作するということについて思いをめぐらせた小論を20編あつめています。 第二部はNHK「テレビ ドイツ語会話」のテキストの連作エッセイを加筆修正したもので、ドイツ語の興味深い単語や表現について著者独自の視点から切り込んでいます。 第一部は、起承転結が明確ながっちりした小論文というよりは、自由気ままに思いつくまま筆を書きすすめたという緩やかさを伴った文が続きます。話題も変幻自在といった感じに転じていくので、えてして「で、そもそも何を論じようとしているの?」という思いも抱かないではありませんが、「自分の言葉」と「他人の言葉」の両方の間を往来しながら生きている著者ならではの「自在さ」があらわれているという風にも取れなくもないなと感じた次第です。 第二部はドイツ語を外から眺めて初めて見えてくる、ドイツ人自身も気づかない「隠れた個性」に目を向けさせてくれるなかなか面白い文章が並んでいます。私はドイツ語と出逢って四半世紀が経過していますが、それでもなるほどと思わせてくれる話が載っていて楽しめました。 しかしもともとが「会話番組のテキストの購入者」という限られた読者を対象にしている文章なので、おそらくドイツ語に多少なりとも知識がないと楽しむことは出来ないと思います。
噂に名高い多和田葉子を読んでみたが、日本の小説がまだこの程度の文学的想像力と日本語運用能力で満足しているのかと思い知らされて嘆息した。ほとんど強靭な狂人の高橋新吉におよばないのは仕方ないこととしてもだ。たしかに腰巻きキャッチコピーが言うように、多和田葉子は「言葉のマジック」にすぎず、それ以上でも、それ以下でもない。この程度なら漫画家の花輪和一のほうが100倍すごい想像力と筆力を、そして人間性に対する深いアイロニーと諧謔を持っている。日本の小説が漫画におよばないということは、かえすがえす残念なことである。
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