倉橋氏の文壇デビュー作「パルタイ」を含む所期の短編集。倉橋氏の原点を振り返るのに好適な作品。
「パルタイ」は在学中に発表され、世間の耳目を集めたもの。学生運動の愚かしさ・硬直性・滑稽さを戯画化して描いたものだが、ヒロインの"わたし"の具体的行動を追いながら、その世界は抽象論理で構築されていると言う才能の煌きが感じられる。だが、人工的色彩が強過ぎて、若書きの感は否めない。「非人」は作者が言う所の「K-L」型の作品で、安部公房氏の作風を思わせる。集団社会における階級差別の不条理さを寓話的に描いた作品で、意識的に用いている糞尿や悪臭の木目細かな描写と寓意性とのギャップで、作品の印象を強めている。「パルタイ」に比べると格段の進歩。「貝のなか」とは主人公が通う歯科大の女子寮の四人部屋の事。主人公の次の言葉が全てを物語っている。「わたしが<貝>のなかで他人にかんじるのは腐食性の毒念であり、殺意以外のなにものでもない。濃密な存在の容器のなかで抽象的なものを固持することにわたしは違和感をおぼえる」。作者自身の想いでもあろう。<貝>とは主人公の彼が属する革命党でもあり、社会そのものとも言える。「蛇」は主人公が大蛇を飲み込んでしまう事から始まる騒動を描いた「K-L」型の作品。相変わらず、教条主義や観念論に対する風刺が効いているが、気軽に読んでも楽しめる。男性器の象徴である蛇を男の口に入れる事に、作者はどのような意味を見い出しているのか興味が湧く。「告白」はジュネ風の作品で、舞台はギリシャであろうか、青い空の下、少年の性的倒錯や嗜虐性を中心に"永遠の時"を描こうとしたもの。
「革命党」、「便所」、「寮生」、「掻爬」等の言葉が再三出て来る。"人間の動物化"も同様。その中で作者自身の理知は不惑と言う意か。読み応えのある傑作短編集。
読む時のタイミングによって 常に感じ方が変わる本。決定権は自分にしかないけど、少しだけ背中を押してもらえるような本。
時にこの本の意味が 厳しく思えるのも 何かのメッセージなのかな?
美しい浮世離れした世界観が軽やかに描かれて、読みながらも夢見心地。小説ならでは、という嘘みたいな設定も持ち味だろう。残念なのは、こういう作品なのに普通に文庫本で出版されてしまったこと。せっかくなら凝った装丁で出して欲しかった。
倉橋由美子の反私小説的な作法(さくほう)にあきたらない私だが、これは面白い風俗小説なのである。いわゆる山田桂子シリーズの最初だが、ジェイン・オースティン的ともいえる。現代日本を舞台にしつつ、結婚の相手は同じ階層の者であれば、取り換え可能だということを示して、恋愛結婚至上主義を痛烈に皮肉っているのである。倉橋の再評価は、この作品から始まるべきだと思うが、もう品切れなんだな。
倉橋由美子作品を読むようになって、20年は過ぎた。倉橋は故人となり、私の倉橋に対する気持も、十代の頃の熱狂と崇拝からは随分遠くなった。冷静に読めるようになってから特に気になるのが、結婚前と後の作風の変わりぶりだ。結局倉橋は、“独身の文学少女のなれのはて”という、一般的な女流作家のイメージで見られる事を、極度に恐れたのか、と思うようになった。特に彼女のような、前衛的な作品をものする女は、頭でっかちで女性としての(特に性的な)魅力に著しく欠けると見られたろうから。それは現在でもあまり変わらない傾向だろうが、多くの女流作家の様々な生き方を知ってしまった今の私としては、いかにも虚しい感じだ。桂子さんものをはじめとする後半生の作品も楽しめるが、やはり何かが足りない。それは女に生まれてきた事への怨み、しかも小説を書かずにいられない女を理解出来ない世界への呪いだろう。結婚し、作家活動は余技、と言い訳がたつようになってからのテンションは、はっきり言えば物足りない。この作品が出版されて3年後に倉橋は結婚する。結婚後最初に発表した長編「聖少女」を倉橋は最後の少女小説と呼んだ。私は倉橋に生涯、少女小説を書いて欲しかったけれど。
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