モーツァルト、Rシュトラウス、レスピーギ どの曲もすごくいいです。
ライブのカラヤン&BPOは、このシリーズのエロイカもそうだけど白熱した
感じが伝わってきてお勧めですよ。マッチョな感じの最強オーケストラとそれを
冷静に、時に感情むき出しでドライブする指揮者の競演。
まさに、20世紀最高の組み合わせの一つだと思います。映像ってクラシック音楽を聞く上で重要ですね。
これからもっとカラヤンのライブ演奏がDVDで出てくるといいと思います。
ヘルベルトフォンカラヤン。 クラシックの帝王として、カラヤンの名前は知っていましたが、実際にカラヤンの音楽をちゃんと聴いたのはこのCDが初めてとなりました。 もぅ、度肝を抜かれる美しさです!!! 感動してしまいました。 脳科学者の茂木健一郎氏が選曲し、本を執筆されているのですが、どちらも素晴らしいです。カラヤンに対する愛が溢れています。 特にCDの選曲が最高にハイセンスでびっくりしました。 まるで無数の星が煌めく宇宙空間に投げ出されたかのような、天空にたなびく青緑のオーロラを仰ぎ見ているかのような、神秘的で甘美で崇高な音楽の「レガート」! ストラビンスキーの春の祭典では地球の鼓動を、ワグナーのトリスタンとイゾルデでは永遠なる時の流れを感じました。 私にとっては宝物です♪ 皆様にもお勧めの本&CDだと思いマス(^-^)ノ~~ カラヤンは永遠なり♪
このケーブルは、70年年代までのドイツ・アメリカの録音の再生に適してます。 1960年代のドイツ録音向けには、こちらGotham(ゴッサム) GAC-2111(EMT-2111復刻) オーディオケーブル RCAペアGotham(ゴッサム) GAC-2111(EMT-2111復刻) オーディオケーブル For IPOD (Ministereo−RCA 二股) ケーブルは、ドイツのスタジオ録音に多く使われている、ノイマンのマイクに使われています。 再生というのは、録音の反対のプロセスです。つまりプレーヤー(演奏者)から発せられた楽音は、マイク→マイクケーブル→・・・録音機材(マスターテープやHDD)へと至ります。これが、再生の場合は(かつてはレコード)CDやPC、Ipod:プレーヤー(演奏者)→オーディオケーブル→アンプ(もしくはプリアンプ→アンプ※)と置き換わるのです。 そして、マイクケーブルを通る段階で、必ず音はケーブル固有の音質に色づけされてます!忠実な(フラット)再生には、その録音に合わせた合わせたケーブルが必要です。 プリアンプ、アンプ、スピーカー、・・・これらをプロ用の機材で揃えるのも当然必要です。しかし、ケーブルにおかしな(=異常に高価な)ものを使ってはいけません!理由は、それは録音スタジオのものではないからです。それは、不要な色付け、歪みをもたらすものでしかありません。 カラーバリエーションは、ブルーのみ。 ゴッサムは、ノイマンマイクの、アッセンブルケーブルとして有名です。 ノイマン社のケーブルは、実はノイマン社で作っているわけではありません。では、どこでしょう?
音楽の再生とは、録音の反対の行為です。このケーブルで、真のドイツ音源を! *ところで、ゴッサムがスイス音楽にしか合わないという、デマがある先駆的通販業者から出てますが、 嘆かわしい限りです。じゃあ、ベルデンはアメリカの録音しか合わない(実際、当店ではそう判断してます。)はず。 自己矛盾は、あの店の特徴ですが・・・ さらに反撃させていただくなら、最近あちらの発売した、「のいまんけーぶる」なるものは、実はノイマン社が作っているわけではありません。それ以上は申せませんが。
筆者が羨ましい。カラヤンさんと少なからぬ時間を共有出来た事が…私がカラヤンさんのファンになって、40年が経った。高校生くらいからのファンでしたから。筆者は、この本の中でザビーネマイヤー事件も触れている。ここでは筆者は、ちょっと本音で語っている様に感じました。私も実はこの事件は長年不快に感じてます。まあ、カラヤンさんのいないベルリンフィルは、魅力無い。ましてや長年の恩を仕打ちで返したベルリンフィル… それに引き換えウィーンフィルは、カラヤンさんが亡くなった後に予定されてたサントリーホールに、カラヤンさんとの演奏旅行ではなく、カラヤンへの日本での追悼の会に出席している。「約束してたから」と言う理由で。律義ですね。口下手で、増してや泣き言をけして言わぬ歳で体もままならず苦しんでいたカラヤンさんに、ひどい仕打ちをしたベルリンフィルを、私は絶対許さない。 しかし。カラヤンさんの新譜が出ない事が本当に寂しい。それが一番辛いです。この本は、やはり著者のカラヤンさんに対する愛情と尊敬の念に溢れてます。偉大なマエストロを偲ぶのに、丁度良い本だと思います。
1991年初版。1992年加筆、また、1995年に日本版のために加筆。音頭取りに過ぎなかった指揮者が、歴史上、如何に権力を掌握したか、なぜそれが失墜しつつあるか、を解き明かす本らしい。アンチ・カラヤンの本と聞いていたので、覚悟して読み始める。
事実上、本書は指揮者の裏話集である。やや露悪的であるが、予想した程には悪意を感じない。カラヤンについても、とくに偏った意見とは思わない。しかし、本題の議論は脇へ追いやられ、肝心の、権力を巡る力学の推移については、途中の追跡がすっぽりと抜け落ちている。また、著者の未来予測は、今となってみれば大半が外れている。予言書としては不合格。
ところで、世界のトップ級指揮者が高額の報酬を得ることは、悪いことだろうか。音楽家の修行は厳しい。ほぼ全員が脱落する競争の勝者が、並のサラリーマン程度の収入で満足すべきなのか。むしろ演奏家の収入が指揮者に比べて低すぎる点が問題なのだが、それは著者の主張とは逆に、音楽家が多すぎるせいではないのか。今やクラシック音楽の需要は乏しい。それなのに、中産階級の子どもの多くは小さい頃から音楽を、楽器を習い、一部はその辺の音楽大学を卒業し、音楽家の端くれになる。音楽家は(少なくとも先進国では)圧倒的な供給過剰である。
指揮者候補生も、過剰であろう。有能な指揮者がいないのではない。予備軍の群れの中の、どこにいるのかわからないだけ。そして、せっかく見出された原石に、熟成を待つ余裕はない。パイの数は少ないのだ。のんびりしていたら、誰かにチャンスを奪われる。大樹は育たず、同じ背丈の秀才指揮者がたくさん育つ。カリスマの生まれる余地は確かに少なかろう。
翻訳は悪くはない。しかし、時々意味不明になる。また、人名表記はしばしば慣用と異なり、誰の事か、考えなければわからないことも何度かあった。誤植もやや目立った。
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